文学って何の役に立つのか、真剣に考えたことは一度もありませんでした。

なんとなく、気になっていたことを深掘りしたり、新しいことを知れたりして、そこに興味を持つのが一定期間続く…それぐらいの考えだったように思います。

すぐに答えが出て、すぐに結果が求められる今の時代、小説を読む時間は、どこか「不要不急」なものに感じられ、自分が手にするときは旅に持っていったり、休みをとってしっかり読んだりする、というような贅沢な時間の位置づけでした。

そんな時に出会ったのが、平野啓一郎さんの『文学は何の役に立つのか』です。 OSIRO社のコミュニティ献本企画に参加したのですが、序盤を読んで結局すぐに購入してしまいました。

この文章で、ドキッとしたんです。

この問いは、答えるのに苦慮する問いでもありますが、最近僕は、苦慮しない一つの理由を見つけました。それは、〝今の世の中で正気を保つため〟です。


この本は、私の問いに答えるだけでなく、文学書の新しい「読み方」そのものを提示してくれました。すぐに消費される情報とは違い、文学は、他人の人生をまるで自分のことのように体験させてくれる「シミュレーション装置」なのだといいます。

自分とは全く違う環境で、違う価値観を持つ登場人物の心に寄り添うことで、私たちは現実の世界で出会う他者への想像力を育むことができます。

特に心に残ったのは、文学が「答え」ではなく、安易な結論に飛びつかずに問い続けるための「知的な体力」を与えてくれる、という部分です。

白か黒か、善か悪かと単純化されがちな世の中の出来事に対して、「本当にそうだろうか?」と立ち止まって考える。その複雑さを複雑なまま受け止める力こそ、今の時代に求められているものなのかもしれません。

そして、本書の中で唯一収録されている朗読作品(詩と言ってもいいのでしょうか)『「国家」と「自然」』を読んだとき、その感覚は確信に変わりました。

私の名は、国家に管理されている。
しかし自然は、私の名を知らず、私もまた、自然界のどんな個体の名も知らない。 (中略) 
私はほんの数万年のすれ違いで、目の前の一本の木と出会えなかったはずである。 
しかし、今、その木に触れている。 


この作品は、人間が作り出した「国家」というシステムと、人知を超えた大きな存在である「自然」との対比を通して、自分という存在の危うさや奇跡性を鮮やかに描き出します。この詩を読む体験こそ、「文学は何の役に立つのか」という問いへの、一つの答えそのものだと心から感じられました。

私たちは、これを読むだけで、普段意識すらしなかった壮大な時間と空間のスケールの中に自分の身を置き、存在の根源を問う思索へと誘われます。これこそが、文学が与えてくれる「解像度の高い視点」なのです。

この本を読んで、今までぼんやりと感じていた文学への想いが、くっきりと言葉になった気がします。そしてそれは、単に「文学書の新しい読み方」を学んだだけでなく、これから自分が何かを「書く」ときに意識すべきことまでもインプットしてくれたように思います。文学は、すぐに換金できるような「役に立つ」ものではないかもしれません。

でも、人の痛みがわかったり、自分の言葉にできない感情に名前をつけたり、世界を多角的に見るための「解像度」を上げてくれたりします。それは間違いなく、私たちの人生を豊かにしてくれる「栄養」のようなものなのだろうかと。

これからは、できるだけもっと物語の世界に浸りたいです。そして、そこで得た想像力や言葉を、現実の生活や人との対話、そして自分が何かを書き表そうとするときに、大切に活かしていきたいです。そう強く思わせてくれる、素晴らしい一冊でした。

素晴らしい機会を、本当にありがとうございました。