最近は、一貫して「誇り」の話になって来ているなあと思います。

希望がない時代だからこそ、せめて「誇り」だけは確保したい、と。


人々が経済的・社会的な希望を失った今、アイデンティティの最後の拠り所である「自分が歩んできた人生は間違っていなかった」という感覚、そんな誇りを守る動きがムーブメントされているように見える。

今日はそんな踏み込んだお話を少しだけ書いてみようと思います。

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この点、哲学者・キルケゴールは「気絶した人には、可能性をもってこい、可能性のみが唯一の救いだと叫ぶことが必要なのだ」と語ったというのは、有名なお話です。

「可能性を与えれば、絶望者は息を吹き返し、彼は生き返るのである」と。

でも現代はその可能性さえ与えられなくなって、その先にある希望も抱けない状態。

そのような状況下において、それでも生き返るために人間に必要なもの、それがきっと「誇り」だと思うんですよね。

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これは、マジョリティ側にもいよいよ余裕がなくなってきた、ということのあらわれでもあるのだと思います。

具体的には、寛容であることに疲れ、自分たちの未来への希望も持てなくなった。

だからこそ、「希望がないなら、誇りをよこせ」という切実な声が、有権者のなかに蔓延しているのだと思います。

もちろん、その潜在的欲望に対して、つけこむ政党なんかも増えてきている。

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この感覚はきっと、年齢の問題もかなり大きいと思います。

2010年代に思いっきりリベラルに振った時代に、20代だったひとたちは30代に、30代だったひとたちは40代になったわけです。

それぞれの年代で抱いていた希望を支えに、他者に対して寛容であれた部分もあるはずです。しかし今は、その希望なんかも年齢の変化ととともに徐々に薄れ始めていて、自分たちが拠り所としてきた価値観や人生観、歴史観でさえも、批判の対象になっている。

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そもそも人は誰でも、自分の歩んできた道に対して「誇り」を持ちたいもの。それと寛容であることは、別問題のはずなんですよね。

人生をかけて培ってきた「誇り」までもリベラルの基準で断罪しようとすると、必ず激しい反発が生まれてしまう。自分の人生そのものを否定されたと感じるからです。

だからきっと今の問題の根幹は、「マジョリティの誇りを叩くこと」と「ポリコレ棒」が、いつの間にかセットになってしまったことにあるのだと思います。

確かに、マジョリティの無神経さによって、知らずしらずのうちにマイノリティの誰かの足を踏んでいたし、2010年代に頻繁に語られた「無意識に他人の足を踏んでいますよ」という指摘自体は、決して間違っていなかった。

しかし、その指摘が、いつの間にか相手の「誇り」そのものを奪う行為にすり替わってしまったのだと思うのです。

なぜなら、その方が「都合が良かった」から。

相手の掲げる「誇り」自体が鼻につくから、ポリコレという切れ味の鋭い論理を振りかざして黙らせることができてしまい、それが常套手段になってしまった。

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言い換えると、ポリコレの論理が、あまりに切れ味が良すぎたのです。

内田樹さんもよく語っているように「切れ味が良すぎるものは、本来切るべきではなかったものまで、切ってしまう」。まさにその揺り戻しが、来てしまっているのだと思います。

以下は、内田樹さんの著書『知性について』からの引用になります。

マルクス主義もフェミニズムもすぐれた思想であり、それまではっきりとは意識化されてこなかったさまざまな社会的な不正や非道を前景化して、社会を「より住みやすいもの」にしたことについては多大な功績があります。僕はその功績は率直に認めますし、敬意も払います。でも、マルクス主義者もフェミニスト、その他の「主義者」たちの多くが陥るピットフォールは「切れ味のよい思想的利器」を手にしたときに、それで「すべてのものを切りさばきたい」という欲望を抑制できないことです。


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できあいの「ものさし」をあてがわれて、査定されて、格付けされて、点数をつけられる。

それに対して、一般庶民の間からも「いい加減にしてくれ!という声が増えてきているのが、まさ2020年代半ばなのだと思います。

内田さんも本書の中で書いていましたが、ここで勘違いしないで欲しいのは「社会理論としてのフェミニズムにはまったく反対していません」と語っていて、僕もまさにそう感じます。

そうではなくて、それが適用されるべき領域には適切と不適切があるにも関わらず、あまりにも踏み込みすぎてしまった、その切れ味の良さに溺れすぎてしまった、ということが問題なのだと思います。

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これは特に、女性の生き方や働き方の問題なんかにも、見事に通じる部分があるなと思っています。

昨日、Voicyのプレミアム限定で配信した自炊料理家・山口祐加さんとの対談の中で、かなり踏み込んだ話をしたのですが、あの話もきっと女性たちの「誇り」の話に直結するはず。


他にも例えば「なぜ産めないひと、産まないひと、お一人様に対して、そこまで配慮をしなければいけないのか」という声なんかもあがるわけです。

家庭を持つこと、子どもを持つことといった従来的な「女の幸せ」に誇りを持つことと、マイノリティの誰かを傷つける話はまた別なのではないか、というモヤモヤとした空気が生まれてきてしまう。

「それがたとえ他者から批判されるものであっても、その人生を歩んできた自分自身の人生に対しては誇りを持ちたい」と思うのは人間の道理だし、持っちゃいけないという話でもないはずです。

今は、この区別が、完全に見失われてしまっているような状態。

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この点、以前もご紹介したことのある『福田恆存の言葉』という本の中に、「床屋のおじさんでも下駄屋のおばさんでもみんな人生観を持っている」と書かれていましたが、まさにそう思います。

以下で、再び本書から福田の言葉を引用してみたいと思います。

人生論とか人生観というものは一種の杖みたいなもので、みんなそれを持っているんだ。意識するとしないとにかかわらず持っていて、それを頼りに生きている。それは床屋のおじさんでも下駄屋のおばさんでもみんな持っているんです。原稿用紙を与えて書けと言ったって、それは書けない。書けないけれども、ある一つの実感としての人生観というものは持っている。それに従って生きている。言い換えれば、何が善で何が悪だとそれから、どういうことが望ましいことでどういうことが望ましくないか。それから、人に対してどういうふうにすればいいかとか、そういう人生観をみんな持って生きているんです。


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このように、いま起きている問題は「あなたの人生観は間違っている」と、その人が生きるために不可欠な「杖」を他者が勝手に奪おうとしている点にある。

繰り返しになりますが、誰かの足を踏んでいたのなら、それは改めるべき。それは一切否定しません。

でも、だからといって、その人の誇りや、自らの歴史に紐づいている自尊心や物語まで奪う権利は誰にもない。

近年は、リベラリズムのあまりの論理の切れ味の良さゆえに、人々が大切にしている誇りの部分までが標的にされてしまっていた。

そして、誇りまで奪われた人々が、ポピュリズムを狙う政治家たちに煽られてしまい、「あなたたちの誇りまでを奪う権利は、誰にもないんだ!」と叫ばれて、その主張に対して「そうだそうだ!」大歓声のもとに、身体的同期を強めてしまっているわけです。

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でも、本当にいま大事なことは、理想や理念を大切にしたうえで、お互いの深い誇りを受け止め合うこと、相手の生き方や誇りを丁寧に祝福することだと思います。

そのときには、「人それぞれだよねー」の多元主義ではダメで。


「相手は相手、自分は自分」と最初から割り切るのではなくて、相手のあり方をまずは祝福し、そのうえで自分はどうするのかを、ひとりひとりが考えること。

つまり、相手を一度受容してから、自分の物語も受け入れる。この順序こそが大切であって、結果は同じように見えますが、そこには雲泥の差があると思います。

この弁証法的なプロセスを経て初めて、「共同体の新たな基準」を見つけ出していけるはずです。

だからこそ「敬意と配慮と親切心、そして礼儀」も大事になる。

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目の前の相手の尊厳と一般的な論理を、一緒くたにしてはいけない。

相手の幸福と社会的な倫理の問題は別軸である、それをいま強く肝に銘じたいことです。

相手にも相手の人生があり、物語があり、守りたい「誇り」がある。

その当たり前の事実を、もう一度確認したい。

まずは、お互いに固有名において承認し、顔のある他者として受容する。「相手のヴォイス」を聞き合う空間を作ることが本当に大事なのだと思う。

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さもないと、この流れは単なるバックラッシュ、そんな大きな揺り戻しだけでなく、最悪な方向にだって進む可能性だってあるわけですから。

むしろ、このままただの揺り戻しで終わることができれば、まだ良い方で、取り返しのつかない方向にも進んでしまいかねない、今はそんな重大な分岐点に立っていると僕は思います。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。