今日も、昨日に引き続き、最所さんとの『国宝』の感想会の延長線のようなお話です。


あの配信の中で、「エンタメとアートの違い」の話が前半部分で話題になりました。

最近、僕が漠然と考えていた、エンタメの盲点のようなものについて、あの話を受けて、改めてうまく言語化できるような気がしたので、このブログの中でも考えてみたいなあと思います。

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さて、現代は、猫も杓子もエンタメの時代です。

大手テレビ局などマスメディアから、SNS上の個人のクリエイターまで「とにかく視聴者や、観客にウケるものをつくろう!」とする力学が働きやすい。

なぜなら、これだけコンテンツが腐るほど溢れる時代だと、そのなかでも選び取ってもらうためには、エンタメ要素をモリモリにしないと、視界にさえ入れてもらえないから。

昔のようにメディアがマスメディアだけと限られていれば、また別の話ですが、より中毒性のある惹きつけるものがたくさん存在する世の中であれば、それは致し方のないことだと思います。

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でも、ここに明確なエンタメ化の落とし穴があるなと思っています。

どうしても、すぐにそれが「つくり話」みたいになってしまうということです。

この点、河合隼雄さんは『こころの読書教室』という本の中で、「つくり話」とは何か、について解説をしてくれていました。

この話が現代のSNS社会を予言しているなあと思うので、少し本書から引用してみたいと思います。

頭で考えて単純にお話ができて、納得ができるのを、それでも面白おかしく、人を惹きつけながら、ある程度読ませるのは、エンターテインメントとか、昔から三文小説とかいわれるものです。私は子どものときにそういう三文小説といわれたり、エンターテインメントといわれるものを、涙流して読んでましたね。それはなぜかというと、そういうのでも、子ども心には感できるんです。というのは、まだ現実というものを知らないから、やっぱり悪いやつをやっつけて、いいモンが成功したというのを「よかった」とか思うんですね。

そういうのを僕は、「つくり話」と呼びます。そして、作り話の非常に上手な方もおられます。作り話が上手なだけじゃなくて、お金つくりまで上手な方もいます。たくさん売れますから。でも、そんなんではない、やっぱり心の底に動いているものを書き、動かないのは書かないということでいくと、白川の話は未解決。このへんが、実をいうと、すごい難しい問題です。


ちなみに、ここで語られている「白川の話」というのは、村上春樹の『アフターダーク』の中に出てくる白川という狂気じみた悪役キャラクターがなぜ、勧善懲悪的にわかりやすく罰せられなかったのか、という話です。

最近だと、たとえば映画『片思い世界』で、主人公たちを殺した殺人犯がなぜか突如車にひかれて、死んでしまうという展開が描かれていましたが、あれはまさに「つくり話」。

大衆エンタメ映画としては、犯人を殺さないと観客が納得してくれない。そういった勧善懲悪的な物語が、エンタメと文学の違いでもある。

逆に言うと、村上春樹の『アフターダーク』は、あえてそんなふうにはスッキリとは終わらせない。「未解決で終えることの大切さ」そこに村上春樹が描く物語の妙があると河合隼雄さんは書かれています。

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このように、エンタメ的な「つくり話」になると、どうしても観客の欲望に対してチューニングし始める。

「チューニングをしている」という自覚がある間はいいかもしれないけれど、そのうち、観客に対して舐めた態度になってしまう。

具体的には、エンタメの作り手側は観客の欲望を完全に「理解した」と思いはじめる。

でも「理解した」という判断こそが分断の始まりで、それ自体が「危ういスタンス」の入口になってしまう。ここは本当に表裏一体だなと思います。


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これが『国宝』の映画版は、マンガ的であり、ジャンプ的であり、ビルドゥングス・ロマンであると僕が言いたくなる理由でもあります。

こうやってゴールを明確にして「友情・努力・勝利」、もしくは「裏切り、浮気、お金」のようなドロドロさえ描けば、観客は喜ぶんだろうという形で、そこに一番ビタッとハマるものを持ってきてしまう。

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また、さらに厄介なことは、そこに「視聴者やお客さんの期待に応える!」という大義名分なんかも立ちやすいわけです。

その「理解した」という驕り自体が、水戸黄門の印籠のようにもなる。

そして実際に河合隼雄さんが言う通り、商業的にもある程度の成功をおさめるわけです。

商業的に成功さえすれば、内容やメッセージ性がどうであれ、今は全員がひれ伏すような世の中にもなってしまっている。

言い換えると、現代は商業的な成功のみが、万人共通の成功、その「ものさし」になってしまっているわけですよね。

あと、たとえば最近だと、みんなが共通に知っている「懐メロ」なんかを、意味もなく持ってくる。

でもそれは決して、何か深い洞察があって、つまりそこに「真善美」があって、今の必要性や、今の問題意識から立ち現れるものではなく、あくまで、視聴者の興味関心、好奇心に対し訴えかけよう、その中毒性をハックしようというだけにすぎない。

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「とはいえ、それが観客としても楽しいわけだからいいじゃないか!一体それの何が問題なんだ!」と思っている方もいるかもしれない。

でも、そうは問屋が卸さないと思うんですよね。

この話というのは、まさにいまの政治も一緒だなと思うからです。

つまり、ポピュリズム化というのは、政治がエンタメ化しているということのあらわれでもあるわけだから。

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よく「アメリカは政治がエンタメ化している、ひとつのリアリティショーになっている」というのは語られるけれど、それは、あの国がエンタメ大国であり、エンタメが政治の劣化をもたらしているとも言えそうです。

ポピュリズムを煽る政治家側も、何か具体的なメッセージ性があるわけではなく、政治の世界で1番を取りたい、とにかく権力を握りたい、というものが、結果的に覇権を握るような構造。

逆に言うと、日本でもエンタメや推し活がここまで流行ってしまっているからこそ、いま政治がここまで同時並行的にポピュリズム化してしまっているということでも言える。

人々が完全にエンタメの世界観、その「つくり話」に対して慣れきっているからですよね。

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そもそも、勧善懲悪の大前提、そんなふうに善人と悪人が対立するという思い込みや先入観があるからこそ「陰謀論」のようなものだって生まれてくるわけですから。

理解しやすい物語の構造やテンプレがまず先にあって、そこに複雑な世界を当てはめて自分の理解で都合よく世界を認識しようとした瞬間に陰謀論の餌食となる。

でも、言わずもがな、世の中にはパキッと切り分けられるラインがあるわけでもないし、世界はもっと複雑であって、何か気持ちよく割り切れる数字のようにハッピーエンドになるわけでもないわけです。

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じゃあ、一体どうすればいいのか。

僕は、常に、エンタメは、より本質への架け橋であることだと思います。

たとえば、今回の『国宝』の映画は小説のプロモーションビデオみたいで、そう考えると、とても素晴らしい作品だったかもしれないね、と最所さんと話題になりましたが、まさにそのようなイメージです。

「もしかしたら、李監督はそこまで想像してこの作品をつくっているんじゃないか」という話で盛り上がりましたが、そうやって小説のほうで描きたかったアート的な世界観の方に興味を持つきっかけをつくることができていれば、それはエンタメとしても大成功だと思うのです。

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実際、僕自身はあの映画を観ていなかったら、上下巻のある、しかも普段自分自身が馴染みのない歌舞伎の小説なんて決して読まなかったし、読めなかったと思います。

でも、映画という形で一度、物語のあらすじを映像で描いてもらって、登場人物もすべて実在する俳優さんたちでキャラクタライズしてもらったからこそ、オーディオブックで上下巻の小説も聴き切ることができた。

そして、その小説版の方で描かれていた世界の本質、その片鱗のようななものにも触れることができた。

きっと、エンタメの大きな価値のひとつはここにあると思います。

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逆に言えば、視聴者側、ユーザー側がここをちゃんと深く受け止めて、エンタメを乗り越えていくこと。

そのコール&レスポンス、制作者への敬意が本当に大事だなと思います。エンタメで終わらせないこと。

みなさんがわかりやすいところだと、「100分de名著」のような番組もそうだと思います。

あのようなわかりやすい番組をNHKがつくってくれるから、僕らはそのある種のエンタメ的な切り口を手がかりにしながら原著に対しても、果敢に挑戦することができるわけですから。

もちろん、作る側も、そのような目的意識を持った形でエンタメ作品をつくって欲しい。

言い換えると、制作者サイドも、決して視聴者を甘くみないで欲しい。「自分は視聴者や観客が求めているものを、完全に理解している!」と豪語して、受け手側を舐めないことは、いま本当に大事なことだと思います。

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最後に今日の話をまとめてみると「本質に導くためのエンタメ、嘘も方便としてのエンタメ」がエンタメの本当の価値だと思います。

嘘を嘘のまま、子供だましの「つくり話」で終わらせてはいけない。

「自分さえ良ければそれでいい。大衆だってこのエンタメで満足しているんだから、それで文句ないだろ!」っていうスタンスは、巡り巡って、政治のような国家の命運を決める行動にまで結びついていくのだから。

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最所さんとのお話の中にもありましたが、真剣な表現者と、その表現者に対して敬意を払うという観客、その関係性をいかに構築することができるのか。

決して「タレントと、無思考の大衆」という関係性で終わらせないこと。さもないとお互いにすぐに堕落し、劣化していってしまうから。

今は、ここが完全に疎かになってしまっている気がします。

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最後に余談ですが、河合隼雄さんは、だからこそ「つくり話」ではなく、「むかし話」が大切なのだと語っていて、この話も本当に素晴らしい視点だなと思います。

長くなるので、今日は触れませんが、ここもとても大きなヒントが眠っているなと感じます。

気になる方は、ぜひ実際に本書を手にとってみてください。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。