自分という人間にも起きてもおかしくなかったことなのに、なぜか自分には起きなかったことに関して、どうしてもひとは軽視してしまいがち。

でも、できれば、そちらのほうにフォーカスしてみたいと、最近は強く思うようになりました。

というのも、いったいなぜ自分はまわりが感じているような苦労を感じずには済んでいるのだろうか、と感じる機会が最近何度か立て続けに続いたからです。

そこに気づけると、この平凡でありきたりな人生も実は、すでに十分に成功している可能性が高いのだとも考えることができると思うんですよね。

言い換えると、人生の豊かさのようなものは、間違いなく“こちら側”、つまり起こらなかったほうに存在すると思う。今日はそんなお話を少しだけ。

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たとえばメンタルの不調について。

最近はいろいろな方が、色々な場面で大なり小なりメンタルの不調を抱えていらっしゃる場面をよく目にします。

じゃあ、なぜ自分にはそれが幸いなことに、今のところは起きていないのか。

ふと思い出したのは、10代の後半のころに、いわゆる中村天風の三部作を読んでいたことはかなり大きかったんだろうなあと思っています。

これらの本を読んでいなかったら、今ごろは自分も周囲と同じく、メンタルの不調をきたしていたんだろうなあと思います。

1冊1万円して、合計すると3万円を超える本なので、安易に人に勧められるタイプの本ではないのですが、この本が自らの心の防波堤のような役割を果たしてきてくれてきたんだろうなあと。

そしてきっと、今話題の大谷翔平選手も、間違いなくこれらの本はすべて読んでいるかと思います。

でも、それを知っていて、自らもこれらの本を読んでいるという僕のようなひとたちは、なぜ自分は彼と同じように成功できないのか、と思うはずなのです。

「自分は、彼と違って実行する力が足りないんだ…」と嘆くのかもしれない。

でも僕は、それは半分本当で半分は嘘だよなと思う。

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ある種、このようなタイプの本っていうのはメンタル面における「予防注射」みたいなものなんですよね、きっと。

それを早いタイミングで接種できたおかげで、世間から注目されるような成功を得ることではなく、現状何も起きていない自分のメンタルの面のほうに目を向けたい。

言い換えると、成功するかどうかは完全に時の運、どれだけ努力をしてもそれが100%報われるわけではない。でも、メンタル面の不調においては、着実に予防はできて、完全には防げずとも、その発生率は下げることはできる。

もちろん、これは読んでいる自分自身を自慢したいとか、そういうわけではまったくないです。

そうではなく、きっと誰にとっても、そんな予防注射のような役割を果たしてくれている作品や体験みたいなものがきっとあるはずで。

それは、自分にとっては何の変哲もないタダの日常の一コマですが、それがすでに大きな成功でもあり得るはずですし、あり得たかもしれない人生と比較した場合においては、本当にかけがえのないものとして映るはずなんです。

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何か大きな成功を期待して、その期待をガソリンのように用いて、ひとは毎日のように必死に学習を行う。

でも本来は、この予防効果のほうにこそ学習本来の意味であって、そちらにしっかりと目を向けたいよね、ということが今日強くお伝えしたいことです。

で、きっと、今日のこのお話は養老孟司さんの『真っ赤なウソ』という本に書かれてあった内容をここでご紹介してみると、よりわかりやすくなるかもしれません。

以下、以前もご紹介したことがある本書から再び引用してみたいと思います。

私が若い人に絶対に誤解してほしくないと、いつもいっていることは、いまの社会で歴史やジャーナリズムが描くのを実社会だと思うなということです。特にジャーナリズムの世界を見ている限りでは、人生は起こったことの連続に見えてしまうんです。ジャーナリズムはニュースにならなければ報道しない。
では、皆さん方の人生って、起こったことの連続ですか。つまり、新聞に出てくるようなニュースの連続ですか。
(中略)
人間は、何事も起こらないように、起こらないように生きているんです。そこに努力を集中しているわけでしょう。だけど、歴史は起こった出来事の連続と化して、ジャーナリズムはもっぱら「事件」を報道している。
(中略)
私は、歴史というのは起こらなかったことの連続として、書かれるべきだと思っています。歴史で起こらなかった根本の出来事は何でしょうか。
生き物が全部絶滅するという出来事は、いまだ起こってないんです。だから、われわれがいまここにいるんじゃないですか。そういうことです。


自分の人生に起きてもまったくおかしくなかったのに、起きなかったことに集中する意味は、まさにここにあるんだろうなあと思います。

どうしても、僕らはジャーナリズムが報道しているような「事件」が、自分の人生の中で毎日起きること、それこそが人生の成功であり「あるべき人生」だと思っているフシがある。

若い人ほど、事件のない人生は退屈だと言いながら、「事件」をドンドン求めていく。でもそうじゃないんですよね、本当は。それは大きな誤解なんです。

ここは何回繰り返しお伝えしても、決して過剰ではないと思えるぐらいに非常に重要な視点だと思います。

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さて、この点に関連して、最近よく思うのは「おいしい」や「楽しい」を過剰に求める社会に対しての違和感も、今日の話と似ているお話だなあと思います。

おいしさや楽しさを過剰に求めてしまうのは、それは現代社会のストレスの裏返しだと僕はずっと思っています。

つまり、日常のストレスを発散したくて、人は過剰においしいもの食べたがるし、あきらかに実感できる楽しさを追求する。そんな実感を味わわせてくれる、わかりやすい「趣味」を欲する。

たとえば、若い男性がハマりがちな二郎のラーメンなんて、その最たる食べ物だと思います。あれは、食欲もエンタメ性もどちらも満たされるから、日々ストレスに囲まれて働いているひとからすると、たまらなく愛おしい食べ物だったりします。

もしかしたら、サウナなんかもそうかもしれません。日常のストレスが反転して、常にそんな突き抜けた「快楽」を求め続ける。

つまり、苦を反転させた快楽というのは、快楽のように見せかけて、実はその正体は「苦そのもの」なんですよね。

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ほかにも、よく知られているところで言うと、お笑いにおいて「緊張と緩和」と語られますが、その緩和、つまり笑いが起きる瞬間の本質は「緊張状態」のほうにある。

これを順番を入れ替えて「緩和と緊張」とは絶対に言わないじゃないですか。

緊張があるから緩和が引き立つ、まさにあの構造です。日常のなかに大爆笑なんて場面は、ほとんどいらない。その証拠に、お釈迦様が大爆笑しているかっていう話なんです。

微笑みぐらいがちょうどいい。

あと、これは極端な話だけれども、もし本当に平和を強く実感したかったら、平和な世界をつくろうと砂を噛むような小さな「予防」や弛まぬ「努力」を重ねるよりも、ガンガンに戦争を起こして、今のウクライナやガザ地区のように破壊の限りをつくせばいい。

そうすれば、ひとはすぐに平和なんかは簡単に痛いほどに実感できる。でも、そんなのはどう考えてもおかしいし、本末転倒じゃないですか。

楽しいと、おいしいを過剰に求めて、かつそれが無限に供給されて満たされてしまう社会というのは、それと似たような側面があって、実は非常に貧しい社会でもあると僕は思う。

みんなは、それを必死で望むのかも知れないけれど、それが本当に無限に世の中に提供されたとしても、それでも僕らはまったく満たされないと思います。

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他にもたとえば、ディズニーランドのような空間は、日常にストレスがあればあるほど楽しい場所になっていきます。

そして「ここから帰りたくない、ずっと毎日こんな世界が続けばいいのに…」というふうに願うはず。道を曲がるたびに「事件」のようなアトラクションが待ってますからね。でもそれが、健やかで健全な状態かと言えば、決してそうじゃないわけですよね。

一方で、日常に過度なストレスがない状態であれば、ディズニーランドに行ったら行ったできっと目一杯楽しめるはずだけれども、ずっとそこに居たいとは絶対に思わないはずです。1日や2日で必ず飽きてくる。

変な話ですが、僕らは味が濃いから「白米」を必要とするわけです。そして、その組み合わせが「おいしい」だと誤解している。

でも、本当に美味しいのは、もっともっと薄味で素材本来の味のほうですよね。

でも濃い味に慣れすぎてしまっていると、あれ「無味無臭…?」みたいに感じてしまう。だからドンドン味を濃くして、そこに白米を山盛りで添えたがる。

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本来、人間が真の意味で遊んでる時のような「遊戯三昧」の境地。そのときにひとがその遊びそのものに興じているときはきっと、”楽しく”遊んでいるわけではないと思うんですよね。

むしろ、対象と自己の境界線、その境界自体が完全に消失して、そのあわいにいるような状態に入り込むことだと、僕は思います。つまり、楽しいとは無縁の場所。

それがフロー状態に入っていると表現されることもあるでしょうし、このあたりは以前から何度も西田幾多郎の「純粋経験」の話などを通して、過去に何度も過去に繰り返し語ってきたところです。

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最後にまとめると、過度に「事件」を求めないこと。そして、自分の人生で起きてもおかしくなかったのに、起きなかったことのほうに同時にフォーカスをしてみる。

そして、日常の中を「美味しい」や「楽しい」で満たそうとしない。

まずは落ち着きや平穏を取り戻し、その後に訪れる「遊戯三昧」のような境地のほうを大切にしていきたいものです。

「ストレス・緊張・戦争」これらを反転させて生まれる「楽しさ・緩和・平和」という快楽状態は、それは完全に偽りの快楽でしかないですから。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。