毎週月曜日に更新されている、Podcast番組「なんでやってんねやろ?」。


今週の月曜日に配信された最新回の中でも、個人的にものすごく響く話が語られてありました。

それは、イケウチオーガニックの池内代表が語った「もう今のうちの社員には、オーガニックしか知らない社員のほうが多いんですよ」というお話です。

これは、坂ノ途中の小野さんから、オーガニック製品をつくることの煩雑さや、面倒くささ、それによる経営の難しさなど、社内からも上がってくる「わざわざ、そんな面倒なことをしなくてもいいんじゃないんですか?」という声に対して、どう対応しているんですか、という質問に対する、池内代表の返答です。

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僕は傍らでこの話を聴いていて、これには「なるほど!」って強く唸ってしまいました。

かつては、オーガニック製品だけでなく、一般的なコットン製品にも触れる機会があった社員たちが、今では完全にオーガニックのみに特化をしている。それをもう10年以上も続けてきているから、そもそも現場で働いている社員のみなさんも、世代交代を経て、「そんなもんだ、それが当たり前だ」という価値観に変わりつつある。

だとすれば、そのような煩雑で手間のかかる製品であったとしても、それをつくったり、売ったりすることだって当たり前なわけですよね。

もし、これが一般的なコットンや、一般的な流通の仕方をもともと知っている場合であれば「なぜ自分たちはわざわざこんなに面倒なことに付き合わされなければいけないんだ」と文句のひとつも出るのかもしれないけれど、そもそも入ってくるときにもそれを許諾してというか、そこにこそ感動や共感をして、社内に自ら進んで入ってきているわけですから。

であれば、それがどんな苦労であっても、それが「当たり前」となる。

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また、イケウチさんの場合は、それが社内外問わず、その理解が広く進んでいるからこそ、お客さんも取引先もちゃんとついてきてくれるわけです。

多少価格が上がったり、納期が遅れたりしても、納得のいく商品をつくって欲しいと、みんなが願う。

それは当然「イケウチオーガニックという会社自体が決してズルいことをしない、サボらない」ということなども知っていて、それを過去の行動や実績を通してちゃんと信用しているからこそ、その信頼関係がしっかりと構築されているんだと思います。これが決して口約束ではないことも、非常に大きい。

なにはともあれ、今回の話、本当にめちゃくちゃいい話なので、ぜひ池内代表の口から直接、音声を通して聞いてみてください。

https://voicy.jp/channel/4598/6026284 

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で、今日考えたいテーマは、まさにこの「世代交代における当たり前の変化」とその重要性の話なんです。

たとえば、医者の家庭は全員医者であるとか、東大の家庭は全員東大であるみたいな話なんかにも似ていて、その集団内、つまり「イエ」において当たり前のことなら、意外と人間はサラッと受け入れてしまう。

でも一方で、何かが当たり前になるというのは非常に長い時間がかかる。さらにそれをやり抜くためには確固たる「教え」とともに継承されていくことも重要で、何世代にも渡ってバトンが手渡されていき、初めて本当に初代が理想とした世界観が実現するわけですよね。

言い換えれば、「ここまでやれたら素晴らしいとは思うけれど…」とみんなが言いながら、途中で苦難や困難に敗れて、挫折をしてやめていってしまう。

つまり、ここでの問題点というのは、世代交代のなかで「当たり前」になるまで信じたことをやり続けられるかどうか、その自分たちの信念を持ち続けながら、次の世代に託していけるかどうか、ということだと思うんですよね。

それぐらい継続性を持たせて、その難業に自分たち自信が耐えられるのか、ということが問われているような気がします。

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で、なぜそんなことを考えているのかと言えば、これは先日サロン内でもご紹介しましたが、最近読んでいた歴史学者・磯田道史さんの『素顔の西郷隆盛』という本の中で紹介されていた「日新公いろは歌」が本当にすごいなと思ったから。

西郷隆盛を筆頭に、幕末の薩摩藩の武士たちが、このいろは歌をすべて暗唱できるように、郷中教育の中で育てられていたらしいのです。

最初の「いろは」だけでも、本書から掲載していきます。

い:いにしえの道を聞きても唱えても我が行いにせずばかいなし
要するに、実行しなければ何の役にも立たないということで、これこそが薩摩に天下をとらせたと思います。
ろ:楼の上もはにゅうの小屋も住む人の心にこそはたかきいやしき
大きなお城に住む人も、貧しい小屋に住む人も、心体が清く正しければ高貴であり、そうでなければ卑しいのだということです。
に:似たるこそ友としよけれ交らばわれにます人おとなしき人
友人を選ぶ時は自分に似ている人を選びがちだが、それは間違い。自分より優れた人や見識を持つ人をきちんと選びなさい、という教えです。



このような歌が47首もつづいていて、それを子どもたちが毎日暗唱をしていたそう。そりゃあ明治維新を起こせちゃうのも、当然だよなあと思います。

生活の中で繰り返し叩き込まれるので、世襲のものとして体に浸みこんでいるのだと、磯田さんも本書の中で書かれていました。

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で、このいろは歌をつくった島津氏の中興の祖・日新公(島津忠良)という人は、なんと戦国時代の武将だったそうです。

その教えをずっと守り続けてきて、最後にはこの国を作りかえて、近代化のきっかけを作ってしまったわけですからね。

つまり、ざっくり300年ぐらいの月日がかかって、薩摩藩が、僕らの知る薩摩藩になり得たということ。

この時間軸をどうやって意識するかの問題、なんですよね。

これは完全に余談ですが、明治維新後、西郷隆盛が東京から薩摩に帰ってしまう理由も本書では語られてあって、後年になって、維新を共に成功に導いた薩摩藩の同士たちが、『いろは歌』の二番目「ろ」の教えに背いて、次々と巨大な家を建てたからだそうです。その教えに背く姿に、嫌気がさして西郷隆盛は薩摩に帰ってしまったのだと。

なんとも愚直な西郷隆盛らしいエピソードで、これも本当に好きな逸話です。

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で、話をもとに戻すと「本当はこうあったらいい!」ということは、僕らはある程度ちゃんと勉強をして、世界を正しく見定めれば、頭にはすぐに思い描けるもの。それはカンタン。

でも、その頭の中で思い描いた姿を、一朝一夕には現実化できないから、僕らは困ってしまうわけですよね。

そして何よりも最大の課題というのは、その完成したフェーズに向かうためには、どうしても一度グンと沈み込んでしまうフェーズを通らないといけない。

そのときに、その沈むフェーズの困難さを、まさに自分たちが受け入れなければいけない。それを受け入れるんだという覚悟を持てるかどうか。

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さらにそれを受け入れるのは、自分の一番輝かしい時代であり、利己的な願望と、大きくバッティングしてしまうわけです。

先日サロン内でご紹介した、フェミニズムの話なんかもまさにそう。

https://wasei.salon/timeline?filter=following&selector=all&message_id=8390693

でも、そうやって歴史上の誰かが自分たちの利己的な欲望なんかを犠牲にして、先に送ってくれたからこそ、その次の世代においては、その価値観が「当たり前」となり、本当の意味で現実化していく。

やっぱり、それには数十年から数百年はかかるわけです。

この最初の起点、橋渡しをする役割を自らが担えるかどうか。

僕も含めて、なんやかんやでみんな自分のことが一番可愛いから、自分の欲望には負けてしまって、旗を掲げるところまでは行くのだけれど、自己犠牲的にであっても関わってくれるような仲間も集め切れず、途中で挫折してしまうということなのだと思います。

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でも、ここで更に問いたいのは、本当にそれは「自己犠牲的であり、自分の人生を無駄にしてしまっている状態なのか」ということなんです。

僕は、決してそうじゃないと思うんですよね。

なによりもそうやって理想を実現していく過程のほうがむしろ、本当の意味で僕は「利己的な欲望」にも叶うとも思うのです。

少なくとも人間が一番恐れているアイデンティティ・クライシスのようなものには決して陥らなくてすむ。

この点、そもそも人がなぜ利己的な欲望、特に消費的な欲望に惑わされてしまうのかと言えば、それは自己のアイデンティティの確立のためであるはずです。

感情が常に不安で揺れ動いてしまうから、その反動で、大きな家で誇示してみたり、ひとに見せびらかせるような、仕事や役職に望んでつきたがるわけですよね。

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でも、本当にの意味で、アイデンティティを形成するというのは、もっと自分を大きな流れのなかに付託をして「自分であり、自分ではない」といことを真から納得することだと思うのです。

東洋思想も、本来は「我無し、故に我あり」という認識こそが主流だったはずなのです。(このあたりは中島岳志さんの『アジア主義』に詳しい)

それをちゃんと納得することができたら、自己のアイデンティティもちゃんと確立することができて、さらに自分にとって成し遂げたい世界観を成し遂げることにもつながっていくと思えるはずなんですよね。

たとえ、その実現した様子を自分自身がこの目で見届けることができなかったとしても、です。

この表面的な欲望部分と、真の意味での充足感みたいなもの、その圧倒的な違いに気付けるかどうかが僕らには問われている。

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その点、池内代表は、それを徹底してやり続けてきたことが本当にすごいなあと思わされます。

すると自然に、こうやって勝手に話を広めていこうとする人間も現れるわけですし、その池内代表がちゃんと基盤を整えてくれたバトン自体を、後世にもしっかりと手渡していきたいと素直に思えるひとたちも現れる。

西郷隆盛にしろ、池内代表にしろ、大事なことを繋いできてくれているひとはちゃんと自分たちより上の世代にしっかりと存在してくれていわけですからね。

あとは、僕らの受け取り方次第。

どうやって、それが当たり前になる世代まで丁寧に受け継いでいけるのか、そんな集団を形成していけるのかの問題です。

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ここで、決して安易に「教育の重要性」とかは言いたくはないなと思っています。

大人が子どもたちに対して偉そうなこと言う前に「その前に大人たちが、自分たちでどうにかしろよ」って思う部分でもあるはずだから。

少なくとも、自分が子供時代であれば、間違いなくそう思っていたはず。

逆に言えば、ちゃんと大人たちが背中で語ることができるようになれば、子どもたちだって次第に、聞く耳を持つようになってくれるはずなんですよね。

そんな風に、ちゃんと背中で語ることができる大人たちの共同体を、一体どのようにつくり出すのか。

なんだか最近はそんなことをばかり考えています。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。