僕は何かにオタク的に、ハマるということがありません。

先日も「何かオタク的にハマっていることがありますか?」と聞かれて、結構真剣に悩んでしまいました。

10代のころは確かにあったような気もしないでもないけれど、30代に入ってからは、本当にまったく存在しないなあと。

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で、なんでオタク的にハマることがなくなったのかと自分なりに考えてみると、昔は自分の中にあった「やり場のないストレス」みたいなものを、その原動力にしていたからなんだろうなあと思いました。

そして、現状はそんなストレスが格段と減っているから、オタク的に何かにハマり込むものもない。

もちろん、そのようなストレスはここ数年で意図的に減らしてきたことでもあるわけです。特に形式的な仕事というのは、本当に請け負わないように意識しています。

心からやりたいと自らが願う仕事だけを淡々と手掛けて、それ以外はその時に自分の興味が赴くままに触れているというような状態です。

もちろん、その中で少し苦手だと感じたりする作業なんかもあるわけだけれども、向かう方角としての納得感はちゃんと兼ね備えているから、それもひとつの良い経験だと素直に感じられています。

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で、このあたりから、今日のタイトルにもつながってくるのですが、いわゆる「ブルシット・ジョブ」ってものすごく嫌われがちなんだけれども、実は多くの人がそれに従事しているからこそ、今日の日本においては、こんなにも多種多様のオタク文化も広がっているのではないかと思ったんですよね。

この点、一般的にには経済成長の恩恵、社会がひとつの成熟期に入ると、オタク文化が花開くみたいなふうに言われるているけれど、それって結構大きな「嘘」もそこに含んでいるなと思うのです。

歴史を振り返れば、確かにその通りなんだけれども、じゃあなぜ、そのオタク文化方面に多くの人が触手を伸ばそうとするのかといえば、各時代のサラリーマン的なポジションにいる社会のマジョリティの人々が、自らの仕事の中で「ブルシット・ジョブ」の割合が増えてくるからにほかならないわけですよね。

特に、お金を使う消費者側において、それが顕著になる。

もちろん、ありとあらゆるコンテンツ産業においては消費してお金を落とす人がまずいなければ、経済圏自体が成立することができなくなるわけですから。

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たとえば極端な例として「ホストが先か、キャバクラが先か」みたいな話にもこれはよく似ているかと思います。

ただ、どちらにせよ、ホストに通う水商売の女性たちが、好きでもないおじさんたちを相手にする「圧倒的なストレス」がホスト経済の原動力であることは、きっと間違いない。

そして、そのおじさんたちも、なぜわざわざそんなところに入り浸るのかと考えれば、日常のブルシット・ジョブにおけるやり場のないストレスが大きな原因でもあるわけですよね。

それがマッチポンプのような役割をしていて、見事に循環をしているから経済圏がそこに成り立っているわけです。

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似たような話で、社会が成熟期に入り「仕事自体が形式化してつまらなくなった、でも小金は安定的に入り続ける」そんな状態が多くの場所で発生するから、これだけオタク文化が百花繚乱状態とも言えるのではないかと思うのです。

いたるところにタテマエ的な仕事が増えるからこそ、どこかでホンネを求めたり、どこかそんなタテマエだらけの「ケの日常」を洗い流してしまう願望に囚われて蕩尽するような場所を欲するのでしょうね。

つまり、仕事における抑圧ゆえにオタク文化の百花繚乱状態があるのだと。そう考えると、人々は本質的には「ブルシット・ジョブ」を自ら欲して望んでいるんじゃないかとさえ僕には思えるわけです。

たとえるなら、一日の仕事終わりの生ビールのように。

よく冗談で「仕事終わりの一杯目のビールのために、私は仕事をしている」と語る人がいますが、あの冗談の構造と実はまったく一緒なんじゃないか。

朝起きた瞬間に飲むビールなんて、極度のアル中の人じゃない限りまったく美味しくなんかないわけです。

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他人のブルシット・ジョブを客観的に眺めているときや、ふと我に返ったときにはみんなブルシット・ジョブのことを嫌だ嫌だって文句は言うのだけれども、その実情は、実はパズルみたいで実際にはやっていて楽しいところもあったりもする。

知恵の輪みたいなもので何かを「やってる感」だけは、見事に感じられる。

そして、そのパズルのご褒美としての報酬、つまり週末のオタク活動の快楽が日々の仕事の抑圧に反比例するような形で、うなぎのぼりに上昇をしていく。

もちろん、これは今に始まったことではなくて、古くは稲作みたいなもので、定住を強いられたことによって、ありとあらゆる文化そのものが生まれてきたみたいな話にも、きっと近いはずです。

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で、ここまで読んでくださった方々の中にはきっと「いやいや、引きこもりの子どもは毎日ずっとゲームやアニメを楽しんでいるじゃないか!彼らにはそんなブルシット・ジョブは存在していない」と思う方もいるはずなんですが、

「学校に行けていない」という圧倒的なストレスがあるからこそ、そのようなオタク文化にのめり込めるという側面もあるはずで。

だから、子どもたちも似たようなストレスはすでに抱えているということなんだろうなあと思います。

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このようにして、ブルシット・ジョブはソレ単体だとものすごく嫌われるのだけれども、それが仕事として成立しているからこそ、毎月の安定した収入と社会的な地位自体も安定し、安心してオタク活動に精を出せている側面は必ずある。

そもそも、仕事自体が充実なんてしてしまったら、たぶん多くの人が、週末のオタク活動なんかしなくなってしまうはずなんです。

でもここまで語ってきて、じゃあその蜜月関係は果たして悪いことなのか、と聞かれると決してそうではないとも思っています。

そのようなオタク文化が、いわゆるクレイジー・ジャパンを生み出し、インバウンド観光やアニメやゲーム・マンガなどのコンテンツ産業にも広く貢献をしているわけですから。

もしそんな日常のストレスがなかったら、そもそもオタク文化に無限にお金を投じようなんて思わないはずなんですよね。

この事実を無視して、単に「ブルシット・ジョブをなくせ!」っていうのは、果たしてどうなんだろうとなんだか疑問に思ってしまう。

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で、ここで、ベートーベンの話を持ち出すのもいかがなものかとも思いますが、そうやって、八方塞がりのような状態をわざと作り出しているのではないか、と思える形に自らを追い込んで、多大なる想像力を発揮する人もいたわけですよね。

僕は心理学者・河合隼雄さんの本で、ベートーベンの生涯の話について読んで、物事はそんなに単純ではないんだろうなあと唸ってしまいました。

以下は、河合隼雄さんの『私が語り伝えたかったこと』という本からの引用となります。

私はベートーベンの伝記を読んでいて思ったのは、何かベートーベンが自分で自分を縛っているというか、自分を不幸なほうに不幸なほうに追いやっているような、「もうちょっと、あんた、うまいことやったらいいのに」と言いたくなるようなときに、だいたい下手なことをして、ふと気が付くと、八方ふさがりという言葉がありますが、七方ふさがりにしてしまって一方だけ開いているのです。何が開いているといえば音楽です。その全部を込めたものすごい大変な人生を、ただ音楽という世界だけにちゃんと表現していて、その表現はベートーベンが死んでから、いまだにわれわれはそれを聞いてものすごく感激するというものを、あの人は作ったわけですね。だから、そういう人が来られた場合に、僕らは何ができるだろうというふうに考えると、これはすごく難しいことです。


「いやよいやよも、好きのうち」という言葉がよくあるけれど、そのような構造自体を認識したうえで、自分には平日の抑圧があるからこそ、土日のオタ活や推し活が捗るんだといえば、それはそれで生き方としては、何も決して間違っていない。

ベートーベンがある意味で、実際にそうしていたように。

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でも一方で、一度ちゃんと立ち止まってみて「もし仮に今の自分が従事するブルシット・ジョブのようなストレスがなかったときに、自分は本当にたった1回だけの人生において、このことに対して、こんなにも多大なる時間とお金と労力を投じたいと願うのか」っていうことは、考えてみるべきことなんだと思うんですよね。

つまり、大事なんことはオタク的にハマっていることを何もストレスのない状態でも、本当にここまで深く熱中しているかどうか、という自己反省する目線なのだと思います。

そんな仮定自体が一つの幻想だし「それができないからこそ苦労しているんだ!」と言われてしまったらそれまでなんだけれども、とはいえ、そのようなことを考えたことさえない状態で、ただ流されるままにオタ活や推し活をしていてということに、ある日ふと気づいてしまったときに、きっとそのときが一番不幸な状態に陥ると思うから。

一体何が自らの原動力になっているのか、それを考えることは、たった一度しかない人生の「はたらく」を問ううえでも非常に重要なことのような気がしています。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。