先日こんなツイートをしてみました。

広告って経済合理性に合わせて作られるもの。一方で熱量は、経済合理性の外側にあるものです。

「そんなに労力かけてつくっちゃうの…!」という驚きの中に感じられるのが熱量です。一昔前は「ネットなのにこんなに綺麗!」と誰もが感じられたけれど、ネットに広告の予算が流れやすくなった現代においては、下手にお金だけかけたコンテンツは広告臭が出てしまって逆効果です。

詳しくは、7年前に書いたこちらの記事をあわせてご参照ください。

参照: 「上手い素人」と「ヘタなプロ」の違い。

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さて、ここからが今日の本題となります。

この「経済合理性」の範囲は必ず、時間が経過すれば外側に広がってきます。

いわゆる、山口周さんがよくおっしゃっている「経済合理性限界曲線」のお話です。

具体的には、使用する機材やサービスが安くなって、それを誰もがカンタンに扱えるようになる。その結果、人件費も下がり、交通費や宿泊費などの諸経費もドンドン下がってきます。

より安価でクオリティの高いものが、誰でも容易につくり出せる世界が必ずやってくる。

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そうすると、いつまで経っても「イタチごっこ」が終わらないのです。

ムーアの法則が適応されるような分野であればあるほど、この距離感はすぐに詰められてしまう。

せっせと自分の畑を耕してみても、すぐに隣の畑も似たような作物を収穫し始めてしまうわけですよね。

だからこそ、この事実に気づいた人たちから、今まったく異なるものづくりを始めているように感じます。

7年前と同じように圧倒的な熱量を込めながらも、今度は絶対にコピーできないものをせっせとつくっている。

札束を使って殴られても、痛くも痒くもなくなるような。

では、一体それは何なのか?

「記憶」であり「関係性」であり「習慣」の産物です。

その積み重ねがそのまま「歴史」や「文化」になっていくような。

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たとえば、今からトヨタ自動車が愛知県で「名古屋城をつくります!」と宣言し、どれだけお金をかけて実際に名古屋城をつくってみたとしても、それがオリジナルになることはありません。

どれだけクオリティが高くても、必ずそれはレプリカにとどまってしまう。この壁は絶対に越えられない。

新たに建築されるものがすべて「歴史」を越えられないというわけではなく、たとえば新たに生まれた「ジブリパーク」は、ジブリにしかつくれない空間です。

それは著作権うんぬんなど法律的な話ではなく、やはりそれはジブリ自身が行わないと、ジブリパーク足り得ないわけです。

じゃあ、この「オリジナル性」というのは一体どのように担保されているかといえば、それはやはり人々の記憶から生まれる関係性の中から生まれる産物であって、日々の習慣によって形づくられているのです。

このような文化や歴史のような「共同幻想」をつくりだすことがこれからはカギになる。

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この日本においては、「天皇制」なんてその最たる例だと思いますが、このようなコピー不可能なものをつくってしまったら、どれだけお金や権威を持った人間や国家(ビックテック)が現れても、絶対に太刀打ちできない。

今から100年後に「東京」という街が消滅している可能性は結構高いと思いますが、奈良や伊勢、出雲あたりなんかは間違いなく今と変わらずに存在しているはずです。

この違いをちゃんと把握して理解できるているかどうか。どうしても「東京」的なものをつくりたくなってしまう時代だからこそ、とっても大事な視点だと思います。

テクノロジーの進化が激しくなればなるほど、「東京」的なものをつくってはいけない。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても今日のお話が何かしらの参考となったら幸いです。

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