SNSが普及して「普段は交わることのない世界の人々に対して、人々が憧れるようになった」とはよく語られる話です。
本来一生交わることがなかったひとたちの生活を、Instagramを中心としたSNSで垣間見られるようになってしまった結果、本来なら感じなくてもよかったはずの嫉妬や羨望のまなざしを持つようになってしまった、と。
それは実際に、そのとおりだと思います。
「自分と同じ人間なのに、なんで?」っていう感情を持ちやすくなった。
でも同時に、これはまったく同じような形で、自分よりも下だと感じていた人々に対しても同様に、同じことが起きているなと僕は思うんですよね。
そして、それが様々な諸問題も引き起こす原因にもなっているのではないか、今日はそんなお話です。
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SNSが広く普及をしたことで、これまでならお互いに自然と避け合っていたであろうひとたちの「人間の心」が知れるようになった。
特に、自分がフォローしていなくても、他人の投稿が流れてくるアルゴリズムに変更されてからは、階級や階層が違ったり、住む世界が異なっていたとしても、おすすめ欄に表示されやすくなりました。
その結果として、上だと思い込んでいた階級も自分と同じ人間だったし、下だと思い込んでいた階級も自分と同じ人間だった、というようなヒエラルキー意識みたいなものが、ここ数年で一気に崩壊した感じがあります。
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で、基本的には、この変化はとても良いことだと思います。
SNSの登場によって、従来は隔てられていた階層や文化、コミュニティの垣根がなくなり、「目に入らなかった他者の生活」が少しでもリアルなものとして感じ取れるようになったわけですから。
それは良くも悪くも「全員が、同じ人間だ」という感覚を生み出し、「境界線」を曖昧にしてきたと思うのです。僕らがアルゴリズムの奴隷になった結果、意図せずして「縦の旅」をオンライン上で行っている。
でもそれを見て、だから自分も似たようなことをやっても良いんだという価値観に染まり始めている人が増えてしまうのは、どうなのかなとも同時に思うものです。
具体的には、詐欺まがいな行為だったり、グレーな領域を攻めるようなビジネスだったり、そういう部分も真似してしまうこと。
そこに踏み込んでいくことのハードルというか、垣根もまた、SNSでそれぞれの生活を垣間見えることになったことによって、そのハードルが一気に下がっちゃっているのが、まさに今だなあと思うんですよね。
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これが昔だったら、ただ単に相手のことを知らないわけだから「ルサンチマン」や「軽蔑」で済んでいられたわけですよね。
それが実際に、いわれのない誹謗中傷や差別や偏見なんかを生んできたわけだけれども、逆に言えば、そういった偏見だけで終わっていた時代でもあった。
そしてお互いが別々の星の住人だと信じ合っていた。
でも、それがありとあらゆる形で可視化されて、ありとあらゆる創作者たちが、それを漫画や動画などでその事実をデフォルメ化し、
「あー、自分と変わらない人間なんだ」と思ったことによって流動性が高まったし、「だったら、自分もやっても良いんだ」ってことに変わってきてる気がするんですよね。
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僕らの若いころの時代で言えば、たとえばヤンキー漫画とかはわかりやすかった。
それをきっかけに、実際にヤンキーたちと関わると、みんないいヤツなわけです。そして、彼らを排除しようとする、そんな社会のほうが間違っているように感じられてくる。
で、いわゆる「朱に交われば赤くなる」という状態に陥るわけですよね。
ヤンキーというレッテルではなく「顔のある他者」となり、情が移り、悪ではなくなって見えてくるから。
その現場にいる顔のある一人ひとりは、自分とまったく変わらない感情を持つ人間であって、ただ悪事を働いているだけではないと、実体験を通して理解できるようになるわけです。
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これと似たようなことは、民族差別なんかにもわかりやすく存在していて、たとえば中国人に対して差別や偏見を持つひとたちこそ、中国人と交わったことがない場合がほとんどです。
でも、実際に中国人と交流し、中国人も自分と同じ人間なんだと思えた瞬間に差別的な視点は一気に消え去ってしまう。
そして実際に、民族というレッテルだけでは相手が悪かどうかなんて全く断定できるわけではないという、至極当たりまえの事実を悟る。
少し文化が異なっていて、カルチャーショックをお互いに受け合うだけで、お互いに交われば自然とお互いに赤くなる、というようなイメージです。
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で、繰り返しますが、それは基本的には良いことだと思います。
でも昔は、そこにはマスメディアのみが情報をコントロールすることによって「断絶」があった。
今はここがユーザー同士がダイレクトにつながるし、そこからお互いにフォローしたり深堀りし合ったりすることができる。
そして、本人たちの生の声だっていくらでも届くようになった。そうすれば基本的にはみんな良いひとで、何かしらの形で必ず共感したり、共鳴できたりするわけですよね。
たとえば、いま若い子たちが、夜職のひとたちに差別意識や偏見を持たずに、むしろ憧れの対象となっているのも、従来の「断絶」がなくシームレスで、いくらでも彼ら・彼女らをSNSで深堀りできることは、かなり大きいと思います。
親や学校の先生が言うほど悪い人たちじゃなさそうだし、なんなら、自分の外見にも驚くほど気を使い、向上心や自制心も高く、そのへんの大企業の中堅社員なんかよりもよっぽど努力をしていて、自分の夢に邁進しているようにも見えるわけです。
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で、これが今の社会で、起きていることなんじゃないかと思います。
このように、お互いに顔のある人間なんだということがわかれば、余計な差別意識を持つことがなくなる。
でも、だから自分もこれぐらいやったっていいだろう、となってくると話が変わってきて、本当にそうなんだっけ?ということです。
言い換えれば、レッテルを貼って反射的に批判をしていた相手を対等な立場として受け入れることと、自分も相手と同じ倫理観で行動するかどうかは、またまったく別軸の問題。
ここがとても大事なポイントだと思っていて、昔ならば無関係な人間に対して「ルサンチマン」か「軽蔑」という一方的な感情で整理がついたけれど、「顔のある人間」だからこそ、そこに共感が生まれやすい。
共感が生まれると、その人を軽蔑したり排除したりするのが難しくなる。共感の延長で、その人のやっていることも正当化したくなる。
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陰謀論などにハマり、他者に一方的にレッテルを張り、属性で軽蔑するひとも増えるからこそ、余計にその対立が深まってしまっているように見えるのですよね。
現実を知らずに安易に軽蔑する人間を見れば見るほど、相手をかばう気持ちが強くなる。
そして、相手の存在価値を肯定したいがために、相手の一挙手一投足すべてを全肯定したくなって、その時の敬意の示し方だったり、自分の中の「認知的不協和」を避けるために、自分も同じことをし始める。
結果、自分も相手と同じ倫理観のラインに揃えようとし始めてしまう。
「そして、ともすれば、アイツらばっかり良い思いをしてズルい!自分も似たようなことを実践してもかまわないだろう」というような、誤ったロジックにもなっていく。
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たとえば最近だと、AIが生成するジブリ風のイラストをきっかけにオープンAI及びその代表であるサム・アルトマンの言動が賛否を巻き起こしていますが、これもどうせAI側が勝つってことはある意味では自明な話なんです。
インターネットの歴史はずっとそうで、YouTubeの違法アップロードのときもそうだったし、バイラルメディア全盛期のコタツ記事なかもそうだし、ブログブームのときなんかも全くそう。
結局、グレーなところを攻めて「大衆の欲望」に最適化した人間たちが経済的、覇権的な勝者になってしまう。そして、勝てば官軍みたいな顔をするわけです。
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でも、そんな時こそ、自分の信念と反することに流されない勇気が本当に大事だなと思う。
自分自身が信じる倫理観を保つこと。それは迷うことの重要性でもあって、そこに正解や答えなんてものは存在しないからこそ、ひとつひとつの決断が自己を形成していく。
だとしたら、私は本来的に何を選択したいのか、それを問い続けることが何よりも大事だなと思います。
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ここの矜持を持ちながら、その後悔を感じない選択のほうが僕はこれからとても大事になってくると思います。
なぜなら、もう正解なんて存在しないから、です。
もっと言えば、どれも圧倒的に正しいし、どれも圧倒的に間違っている。
ひとりひとりが全く異なる基準を採用するようになるでしょうし、それゆえに流されないことが一番の重要なポイントになる。
すべては並列であり、社会はもうその序列を自分の代わりに決定してはくれない。民族も宗教も、年収も暮らし方も、そこには一切の序列なんてものは存在しない。
だとすれば、自分は一体何を大切にしたいと願うのか、他者の尊厳を尊重しながらも、同時に自己の倫理を確立しようと努めること、それを問い続けることの重要性。
倫理観が大きく揺れ動く時代だからこそ、このあたりに迷う人々も増えてきているなあと思ったので、今日のブログにもまとめておきました。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。

2025/04/06 20:35