先日Voicyで配信した、Podcast番組『なんでやってんねやろ?』チームのみなさんが出演したゲスト回で、僕が深く気づかされたことがあります。
それは、イケウチさんや坂ノ途中さんのようなオーガニックな成長を目指す企業にとっては、Podcastのような地道に積み上げていく関係性構築をできるメディアのほうが、メディアとしても、とても相性が良いということ。
これは本当になるほどなあと思いました。
音声コンテンツのバズらない、一気に広がっていかないというデメリットこそ、実はメリットだったという発見につながりました。
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言い方を変えてみると、できるだけ短期間にコスパ・タイパ良く、パフォーマンス(成果)をあげなければいけない呪いみたいなものに、僕自身がかかってしまっていたなあと。
「収録にかけた労力の分、すぐにその労力は報われなければならない」という無意識の思い込みに陥ってしまっていたなあと。
インターネット上のコンテンツというのは、すぐに反応が返ってきて数字にもあらわれやすいからこそ、余計にその思い込みに囚われてしまっていたなあと思うんですよね。
ここは本当に深く反省したいところです。
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すぐに成果を出さなきゃいけないわけじゃない。それよりも、長く続けて、出演者のみなさんにもしっかりと「配信していて楽しい」と思ってもらえること。
そのうえで番組を起点にしながら、リスナーさんとの丁寧なコミュニケーションの基盤を積み上げていくこと。
そこで初めて育まれる企業とお客さまの相互コミュニケーションや文化感のほうを大切にしたほうがいいんだろうなあと。
急激に伸びたメディアほど、急激にしぼんでいくというのは世の常ですからね。
そうではなくて、オーガニックな成長を目指す企業の音声オウンドメディアの場合は、静かに、でも着実に続けていきながらも、リスナーさんにも企業側にとっても「なくてはならない」メディアになっていくこと。
こんな風に、企業の成長スピードと音声配信の相性があるんだということ、直接みなさんからご意見聞かせてもらって、本当に目からウロコが落ちるような感覚でした。
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で、それは「情報」や「知識」だけではなく、そこに抑揚としての「感情」があるとより一層伝わりやすくもなる。
その感情という側面は、話し言葉、特に方言のようなものでこそ、伝わるんだろうなあと感じます。
で、この感情の抑揚を大切にしながら語ることが、最近はなんだか「落語」みたいだなあと思うのです。
そして、坂ノ途中の小野さんは、それが本当にお上手なんですよね。
いつも話に一本の筋が通っているし、なおかつ、周囲の人々とは少し視点が異なりながら、京都特有のアイロニカルな部分も持ち合わせていて「情報・知識・感情」の塩梅、そのバランスが本当に素晴らしい。
ここまで上手に三拍子揃っているひとを、僕は他に見たことがない。大抵の場合、3つのどこかに偏りがちですからね。
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で、この落語的快楽を生み出しながら大切になってくるのは、同じ話を繰り返しシチュエーションや文脈を変えながら聴きたい!と思ってもらっているかどうかだと思います。
「それは前にも聴いたよ」と嫌がられるのではなくて、あなたの口から直接、同じ話を何度でも繰り返し別の文脈で聴きたいと思われているかどうかが落語的快楽だと思うんですよね。
この点、情報や知識だけであれば、一度聴けば大抵の場合は満足だけれども、感情はむしろ、何度もその感情を味わいたくなるものですから。
音楽や歌などを繰り返し聴きたくなるのも、それが情報や知識ではなく、そこで引き出される感情を味わうため。しみじみと、そこに込められているメッセージ性に対して共感や共鳴を何度もしたいため。
実際、このPodcast番組も、同じ配信回を何度も繰り返し聴いているというリスナーさんもいてくださって、制作サイドとしても非常に驚いています。
まさか、そんな風に聞いてもらえるとは始める前は思ってもみなかったからです。
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さて、ここで少し話は変わりますが、「落語とは、人間の業の肯定である」 と以前Wasei Salonの中でも読書会を開催したことがあるNHK出版「学びのきほん」シリーズから出ている『落語はこころの処方箋』という書籍に書かれていました。
ちなみに、この本はとてもわかりやすく落語の魅力を教えてくれるとても素晴らしい1冊で、誰でも簡単に読むことができるので、ぜひとも一読をオススメしたい。
この本の中には、世の常識からすれば、しくじった奴、ダメな奴でも「しょうがねえなあ」と笑いにしてくれるのが、落語の世界なんだと書かれてありました。
失敗しても、「まあ、そういうもんだよ人間って」と認めてくれるので、落語を聞くと、なんとなくほっこりした気分になれるものなんだと。
「だから今、世の中に落語が求められているんじゃないでしょうか」と書かれてあって、心底納得したことを覚えています。
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で、本書の中では、落語は「仏教」から派生したものだとも書かれてあって、今も仏教と重なる部分が多くあるんだと。
人間の弱さを許し、手を差し伸べるのが仏様の慈悲深さであって、落語の噺も、仏教の説法も、訴えていることは一緒であり、それぞれに兄弟みたいなもので、
そのうえで、できの良い堅物の兄が仏教で、やんちゃな弟が落語だと書かれてあって、なんだかこの部分にとてもハッとしたことをハッキリと覚えています。
この話のくだりのなかで「講談は武士」「落語は庶民」に好まれたという流行が紹介されていたのも、非常に納得させられました。
これは今のVoicyと、Podcastの構造なんかにも非常によく似ていますよね。というか、全く一緒だなあと思います。
時代や、そこで届けられるコンテンツの内容が変わっても、人々が求めるような本質は一緒であるということなんだろうなあと思います。
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では、どうして何度も同じ話を聞けるのか、ここが落語的快楽の核心部分だと思うので、本書から少し引用してみます。
では、どうして何度も同じ噺を聞いて笑えるのでしょうか? それは、古典落語が作品として完成度が高く、普遍性があるからです。落語家は、その名作を自分なりにアレンジして、オリジナルの話芸に昇華させて披露します。だから、同じ噺でも人によって、時によって違う作品として楽しめる。
僕はここを改めて読んでみて「あー、だから小野さんの京都弁で語られる京都文化であることが大事なのか!」と膝を打ちました。
本来、落語は江戸文化の粋と野暮の話が落語だったはずですが、でも今はそんな東京という舞台が生産性一辺倒で語られる社会になってしまっている。
その時にアンチテーゼとなる京都や、小野さんのご出身の奈良の文化が落語的な普遍性を生み出すということなんでしょうね。
そこに宿っている普遍性が、人々の感情を揺さぶる。
これは言い方を変えると、資本主義一辺倒の論理に対して、アイロニカルな風刺と共に批判をしながらも、コミュニティ自体が続いていくことにしっかりと根ざした「町人文化」の強みなのだと思います。
リベラル左翼のように徹底的に権力者をやり込めたり、既存の社会秩序を破壊して革命を望んだりと、そういったきな臭い方向に行かないのも、町人文化が生み出した知恵だよなあと思うのです。
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あと、本書の中ではみなさんにもお馴染みの「与太郎」の話も頻繁に出てきます。
落語では、与太郎のようなダメ人間をどうやって肯定するか?という話なんかも語られてあって、そちらもすごくおもしろかった。どうしようもない奴だけど、憎めないし、放ってはおけない。ようするに、与太郎は「愛されキャラ」なんです、と書かれてありました。
で、これも先日も語った「短所を長所として開花させる場」としてのコミュニティの役割とダイレクトに繋がるなあと思ったんですよね。
実際、本書の著者である立川談慶さんも「与太郎の『愛され力』もすごいですが、与太郎みたいな奴を受け入れている江戸のコミュニティもすごい」と書かれていて、このコミュニティの価値基準、その受け入れるための物語のつくり方や届け方のほうが、今はとても大事になってきてるんだろうなあと思います。
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このような普遍性が存在する知恵をどうやって共有し、なおかつ共通の価値基準として物語にして丁寧に伝えていくのか。
これが、文字や文章の場合は、どうしても合理的な意見や、そこで展開されるロジックのほうが勝ってしまう。
ここはやっぱり、話し言葉の強みだなと思います。話し言葉で聴いたほうが、なんとなくそんな物語にもついつい納得をしてしまう。
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このような文化を丁寧に時間をかけて育んでいくこと、それが一番強い基盤を生み出して、レジリエンスも高くなっていくんだろうなと思います。
だからこそ、イケウチオーガニックさんや坂ノ途中さんのように、100年先を当たり前に見据えている会社と共に、オーガニックな成長を目指す企業に、ピッタリのPodcast番組をつくっていきたい。
もちろん、だからといって儲からなくてもいい、成果に繋がらなくてもいいということではないけれど、成果につなげたうえで、金銭的価値や急成長を最優先しない。それよりももっともっと大事な価値観も存在するよね、という文化やコミュニティ自体の価値を丁寧に伝えていく番組をつくっていきたいなあと思います。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。