僕は常々、個人の自由意志や自己責任のせいにして、問題を解決したくないなあと思っています。

「その状況に置かれたら、人間はどうなりやすいのか?」その思考の傾向や癖をちゃんと見定めたい。

そのうえで、仕組みや環境から問題解決をしていきたいですし、絶対にひとり(個人)のせいにはしたくないです。

でも、そうすると、前提がだんだんと性悪説になっていくんですよね。

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たとえばわかりやすい例でいうと、行政の場合「同じ部署に長いあいだ勤めると癒着が生まれやすいから」という理由で、2年〜3年の期間で全く異なる部署に移動させられてしまうそうです。

確かに、ひとりの人間が長いあいだ同じ部署にいたら、人間の傾向として癒着を生みやすいのかもしれない。

でもだからといって、2年〜3年で全く異なる部署に全員を移動させる必要はないと思います。

良かれと思って仕組み化した結果、「個々人の専門性を排除するような仕組み」になってしまっている…。

ここが仕組み化することの最大の落とし穴だと個人的には思っています。

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そして、似たような仕組みが組織のなかにはいっぱいある。

どうにか余白をもたせたまま、仕組み化することができないのか?

つまり、性善説のまま、仕組みや環境で問題を解決するということができないのか、ということです。

そもそも、人間の誠実さと欲望というものは、表裏一体なんだから。

欲望を排除してしまうと、誠実さも同時に排除してしまうことになりかねない。

そう思って、いろいろな仕組み化にチャレンジし始めると、何度も何度も失敗するんですよね。

「やっぱり今回もダメだったか…」と輪廻転生しているような気持ちになってくる。

でもそこで諦めない。そのためにはどうすればいいのか、必死で考え抜いてみる。

「戦わずして勝つ」というのも、そのひとつの方法なのかもしれないと今は思っています。

参照:「戦わずして勝つ」ために、自分の中にある好戦性を認めよう。 | 隠居系男子 https://inkyodanshi21.com/blog/14891/

失敗した原因を分析し、改善し、根気よく働きかけていくこと。それに尽きるなと。

最後はフワッとした着地になってしまいましたが、最近はそんなことを漠然と考えています。