さて、今日は純粋な問いであり、「わからないこと」についての共有です。

以前もご紹介した橋爪大三郎さんと大澤真幸さんの対談本『アメリカ』という本の中を読んでいたら、結構激しくアメリカの哲学者であるリチャード・ローティのことが批判されていました。

僕は、リチャード・ローティのスタンスは、かなり好印象を抱いている人間です。

特に「リベラル・アイロニスト」は、このブログでも過去に何度もご紹介してきました。

改めて「リベラル・アイロニスト」について説明しておくと、自らは絶対的な神を信じているのに、他者においてはその信仰の自由を認める、というような極めて曖昧な態度です。

もし自分が「絶対的な神」を信じているのなら、それ以外の信仰の自由を認めることは、本来であればおかしなことである。でもソレでいい、ソレがいいと語るのが、リベラル・アイロニストのスタンスです。

僕はこのスタンスに強く共鳴してきました。だからこそ、本書を読みながら「なるほど、そんな視点もあるのか」と、とてもハッとさせられたんですよね。

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以下は、本書の中でローティを批判していた部分からの引用となります。すべて橋爪さんの発言となります。

ローティの本質は、ポストモダン的相対主義だな。それに尽きると思う。なんだかんだ言っているけど、自分の積極的主張はほぼゼロです。
偉いかどうか知らないが、自分の積極的主張はほぼゼロで、ポストモダンのいろんなことはとてもよく知っている、こういう人ですよね。
ポストモダン的相対主義の特徴は、まず、複数の哲学体系がある。マルクス主義があって、フーコーがあって、構造主義があって、デリダの脱構築があって、そういえば現象学もあって論理実証主義もあって、いろんなことを全部勉強して、それぞれなるほどけっこうですね、と。で、そのどの立場に立ったとしても、他の立場との間に大変な矛盾や対立や葛藤が起こる。では、そのどれかの立場に立つのは、もう時代遅れでしょう、と。そういう、あまりにマジでダサいスタイルを取るまでもないでしょう、と。そういうのはやめて、横並びでいいじゃないですか、と。そういうことを言っている。あとは、誰が何をやっているか、おしゃべりを続けることが、哲学の課題です、と。


じゃあ、なぜこのようなペシミズムで、無能力主義のようなものが許されるのかといえば、それは大学で講義ができるから、だと。

「アメリカでは、そういう知識人が大学に吹き溜まって、社会に対して何の影響力も与えない、そういう状況にあるんだけど、そういう中でのいちばんの偉いさんがローティのような気がする」とも語られてあって、なかなかに辛辣な意見だなあと思いながら読みましたが、でもこの話もきっと一理あるんだろうなあと。

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また、この文脈において「アイロニカルな没入」についての批判についても、書かれてありました。

こちらに関しても、非常に興味深い議論だなと思いながら読みました。

上述したようにローティの主張自体は「捻りのある相対主義者」であり、決して何かペシミスティックにそのような発言をしているわけではない。言い換えると、嫌なヤツだからそういうことを言っているわけじゃない。

むしろ、それは「良心的な心」から発せられるものでもあるのだと、お二人は語るんですよね。

「もしこれが見え見えの相対主義者だったら、すぐに打倒されてしまうだろう」と。

でも一方で、だからこそ、このような「アイロニカルな没入」が幅を利かせてしまう原因にもなっているのだと僕は思ったんですよね。

以下は再び本書からの引用です。こちらはすべて大澤真幸さんの発言です。

たとえばローティはアイロニーという言葉を使うんですね。私の造語に「アイロニカルな没入」というのがあるんですが、それはローティのことを意識しているのです。つまり、「なんちゃって」の意識をもっているということなんですよ。
「俺はこれが正しいと思うけど、これが絶対の真理と思ってないけど、俺にとってはこれなんだよね」と自分を相対化してもいるんですよね。つまり「俺はこの船に乗って、この船がいちばん立派だと思ってないけど、かといって別の船に行けないし、海に落ちたら死ぬだけだから、この船に乗っているしかないね」、そういう突き放した気分ですね。それはアイロニーというふうに言える。


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で、アメリカには、このようなリベラルな人々がたくさんいると。

そのひとたちが「民主党左派」みたいな立場として存在していて、アメリカの政治を語っているんだけれども、実際には、今のアメリカを動かしているのは、中道と宗教右派の連合体。

そのような人々がアメリカを動かしているんだとも語られていて、ここから、みなさんが想像する通り、トランプ現象の話につながっていきます。

そして、このような流れの中で、トランプ現象を説明してもらえると、どうしてトランプのような人物がアメリカでここまで支持されるのか、ということも少しずつ見えてくる。

民主党左派のようなリベラルな人々は、いろいろな学説を理解したうえで、そのうえで「アイロニカルな没入」のような話を語るのだけれども、でもそれでは何か言っているようで、何も言っておらず社会は何も良くなってはいかない。

むしろ、世の中はますます複雑になる一方で、「この目の前の問題をどうにかして欲しい」と有権者は願うのに、政治的に正しい理想論ばかりが語られて、自分にとって大切な目の前の問題それ自体は一向に解決されていない、そう感じられてしまうのも、当然のことだと思います。

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そしてこのような話や構造というのは、アメリカに限らず、日本においても似たようなことが、まさにいま起きているよなあと思います。

この点、どうしても僕らは「政治的正しさ」のエクスキューズをしないと、自分の意見を語れないような状態に陥っています。

「それも間違っていないと思うけれど〜」とか「別にそれでもいいと思うけれど〜」とか、大して相手の意見を良いとも思ってはいないけれど、相手の立場を認めることの政治的正しさのほうを優先してしまう。

多様性を認める寛容な人間でありたいという欲求のもと、必ずそのような前提をエクスキューズとして前置きをして話を開始せざるを得ない。

それは決して皮肉でもないし、言っている本人自体も、強い信念のもと、本当の意味でそれが「優しさ」だと思って語っているはずなんですよね。

それがまさに大澤真幸さんの造語「アイロニカルな没入感」そのものなのだと思います。

これは、本当にとってもむずかしい話ですよね。僕にもまったくその答えがわからないような問題です。

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さらに本書の中で、大変興味深い話だなあと思ったのは、2017年のトランプが当選した大統領選挙の「子どもの事前投票」の話です。

大澤さんの話によると、アメリカでは大統領選の本選挙の前に、子どもたちによる模擬選挙が毎回開催されていて、通常は、親の政治的選択を反映し、実際の選挙結果と一致するそうです。

しかし、2016年の米大統領選では、異例のことが起きたと。

具体的には、子どもの模擬選挙ではヒラリー・クリントンが勝利したにもかかわらず、大人が投票する実際の選挙ではトランプが当選したそうです。

なぜ、そうなったのかといえば、トランプに投票した人たちは、家庭内においては、自身の政治的立場を明かさず、むしろ子どもの前では「政治的に正しい」選択として、ヒラリーを支持しているかのように振る舞っていた可能性がある、というふうに本書では指摘されていました。

さらに大澤さんは、多くの人が実際にヒラリーを「政治的に正しい」選択だと認識しつつも、その「正しさ」に違和感を覚えていたのではないかと推測しています。

そして、自分たちの不遇感を自らに「正しく」説明できないまま、「政治的な正しさ」を蹂躙するトランプに、自らの代弁者を見出したのではないかと分析していて、この話も本当におもしろいなあと僕は思ったんですよね。

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で、じゃあ、子どもたちは本当に、親がヒラリーを支持していると本気で思っていたのか。

本書の中では子どもたちが、純粋に家庭内の親の話を信じていたような語り口で書かれていましたが、僕はこの話を読みながら、実際にはそうでもないんだろうなと思います。

親の本心が「トランプ支持」だということも、明確にわかっていた子どもは意外にも多かったんじゃないかと思う。

でもそれでも、親だったらどこにいれるのか、そんな「政治的正しさ」さえも子どもはちゃんと理解していたということなんじゃないでしょうか。

そこまで全てバレているうえで起きていること。

ただ、親というのは、こどもとは違って、ズル賢くて、ちゃんと本音と建前を使い分ける生き物。

だから、それぞれの結果がズレたのだと思うんですよね。

もし今回の大統領選も、この子どもの模擬選挙が行われるのであれば、その結果がどうなるのかは、非常に興味深いなあと思ってしまいます。

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今日書いてきたように「アイロニカルな没入」をしているのが、現代人です。僕も、もちろんそのひとり。

このWasei Salonも「問い続ける」とか、その問い続ける「運動それ自体が大切」とか、苦肉の策のように語ってしまっているように見えていると思いますし、そのうえでそれでも言い続けているというのが、本音です。

でもそれ以外がありえるとは思えないのも、同時にものすごく本音なんですよね。

じゃあ、僕らはどうしたらいいのか。

繰り返しますが、その答えは全然わからないし、もちろん本書にもそのような話は書かれていません。突如この話題がスパッと終わってしまいました。

本当にむずかしい問いだなあと思う。むずかしいからこそ、みなさんとともに考えていきたい。

少なくとも「むずかしいから」という理由で考えることからだけは逃げたくないなあと思います。Wasei Salonは、そんなことを丁寧に考え続けることができる場にしていきたいなあと思っています。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。