近年は転職がドンドンと当たり前になってきました。
ただ、似たような大企業をぐるぐるしていても、似たようなスタートアップをぐるぐるしていても、大して視野は広がらない。
少しずつ社風が異なる程度であって、それでわかることはたかが知れているなあと思います。
ほかにも、都内や大都市圏で転職ばっかりしていても、わからないことはたくさんある。
ローカルにはローカルの仕事や人間関係があって、海外の仕事にはまた、海外の仕事で全然異なる価値観が存在しています。
つまり、仕事においても、過去に何度か語ってきた「縦の旅」と「横の旅」のようなものが存在しているんだろうなと思うのです。
このことを理解していないひとは、世の中に意外と多いのではないのかなと感じています。
転職を繰り返しているから、自分は働き方の多様さに触れていると思いがち。
でも、それが似たような規模感の会社やエリア内での転職であれば、そこまで視野が広がっているわけではないはずです。
ーーー
この点、サロンの中には書いているけれど、最近僕は、地元の友人たちとポツポツと仕事するようになってきたのですが、小中一貫校に通っていたから、そこでお互いが握り合っている信頼感というか、腐れ縁のような感覚は、都会にはなかなか存在しないものだなあと実際に自ら体験してみて強く思います。
そのようなつながりを担保にしたうえで進む仕事の感覚は、これまでとは全く異なるものがある。
きっと、薩摩藩の「郷中教育」などの意味合いというのも、ここにあったんだろうなあと思わされます。良くも悪くも絶対に裏切れないし、利己的な欲求を優先したいとも、まったく思わない。
それよりも、結果としてお互いの利害関係が最終的に一致している「地域」という共同体に資する行動を取ろうと、自然とそこに全員の目が向かう感じが本当におもしろいなあと思います。
ーーー
一方でもちろん、中国で働いていてときは、まったくその逆のような価値観を見せつけられました。
すべてが個人のメリット、具体的には「お金」中心で動く世界。小さな家族と、大きな市場経済で駆動する論理。そして、それを上から管理している中国共産党。
このように、都会やローカルそして海外など、どれが良い悪いではなく、仕事面においても、人生のなるべく早いうちに、そのような「縦の旅」のような経験を、たくさんしてみることは案外大事なことなんだろうなあと、自分の経験を通して思わされます。
ーーー
これは、少し余談ではあるのですが、僕は20代前半で中国で働いていたときに、午前中は海外の語学留学の大学に1年間通っていて、そこには世界各国から様々な人種の人々が一つの教室に集まっていたのですが、そのときに韓国人の同級生の女の子から「何カ国のひとと付き合ったことがある?と聞かれて、心底驚いたことを今でも昨日のように思い出します。
そんな質問を受けたのは人生で初めてだったから。
国内で「何人と付き合ったことがあるか」と問われたことがあっても、「何カ国の人と付き合ったことがあるか」と聞かれたのは初めてだった。
これもまさに、今考えてみると「横の旅」ばかりをして満足しているつもりでいたら、「縦の旅の少なさ」を見事に指摘されてしまったような気分です。
ーーー
で、基本的に、縦の旅で出会うものというのは、基本的には矛盾だらけなんですよね。自分という個人の価値基準と照らし合わせたときに不協和音だらけと言ってもいい。
もちろんそのなかで、それぞれの信念の違いだって目立つわけだから「イデオロギーは悪だ」という結論にもなっていきます。
とはいえ、そこにはまた、別のひとたちが生きている生態系や文化圏も存在していて相対主義的にになっていくのも仕方ないし、それは当然のことだと思います。
僕自身も相対的に見ることは未だに大事だと強く思っているし、何度も何度もイデオロギーの視野の狭さについてはこのブログで批判してきました。
でも、それというのは僕自身が自らの人生を通して、数々のイデオロギーを自分の目で見てきたからこそ、言えることでもあるわけなんですよね。
ーーー
この点に関連して、政治学者・白井聡さんが『日本戦後史論』という本の中で語られていたことが、とても強く印象に残っています。
白井聡さんは、このご時世においてマルクス・レーニン主義者というなかなか尖った思想を支持している方です。
じゃあなぜ、白井さんはこんなにも尖ったイデオロギーを、自らの軸に据えているのか。
その理由について語られている部分を、本書から少し引用してみたいと思います。
やっぱりイデオロギーは大事だというふうに思っているわけです。イデオロギーは人を殺すかもしれないという感覚が、上の世代の大学教員にはあります。それでどうなったかというと、「イデオロギーじみたことを教育の場では言っちゃいけない」という雰囲気ができてしまった。ことごとく相対主義で両論併記。私はそれでは教育が成り立たないと思います。教員は自分のイデオロギーを学生たちに押し付けていい。学生がそれを取捨選択して考えればいい。押し付けは避けなきゃいけないなんていうのは、学生をバカにした話です。大人として判断できないだろうと見ているわけですから。
だから、イデオロギーから逃避するというスタンスは全然おかしいと思うのです。イデオロギーなんてどこにでもあるに決まっているのです。それがなければ何も説明できないのですから。
このように語ったうえで、白井さんは「イデオロギー一般がダメなんだということではなくて、イデオロギーとの付き合い方が問題」だと語ります。
そして、「付き合い方」という真の間題を回避してしまうと、「イデオロギー一般がいけません」という「メタ・イデオロギー」を無自覚に振りまくことになってしまう、と。
それゆえに、白井さんは、マルクス・レーニン主義という「イデオロギーの中のイデオロギー」一番ゴリゴリのやつを持ってくることにしたんだと本書の中で語っていました。
ーーー
僕自身、マルクス・レーニン主義自体には共感できないですが、それでもこの白井さんのご指摘は、とっても大切な観点だなあと感じます。
そして、変な話だけれど、この話をうけて、まずは縦の旅を通して、いろいろなイデオロギーを周囲から押し付けられることが本当に何よりも大事なんだろうなと思います。
その中で、自分の実体験を通して、矛盾や葛藤、そこから立ちあらわれる失敗を繰り返してみること。
上の世代は、自分自身がそれでたくさん失敗をしてきて、ときにイヤな経験、面倒くさい経験をたくさんしているからこそ「同じ失敗をさせないぞ!」という話になって、教育のメッセージとしては「イデオロギーは悪だ、相対主義的に物事を眺めよう」という感じになるわけです。
まさに昨日のリチャード・ローティのような話です。でもそれは、最初にいろいろなイデオロギーに当てられるから、そのような態度にもなり得るわけで。
ーーー
これは、子育てなんかともまさに一緒ですよね。
そして過去に何度もご紹介してきた、坂口安吾の『恋愛論』なかともまったく同じ話。
他者や世間からの強烈なイデオロギーを当てられて、そのたびに深く考え、自分の中で深く葛藤すること。そして、時には大きく傷つくこと。
逆に言えば、そうやって失敗をしたことがないから、大きなイデオロギーの波が襲ってきたときに、ナイーブに全身が朱に染め上げられて、後戻りできない悲惨な末路をたどる。オウム真理教なんかがまさにそうだったようにです。
あれは、親や教師の世代が様々なイデオロギーにもう辟易していて、その結果として子どもたちには、そのようなイデオロギーには当てられないような温室環境をつくってあげた結果、悲しくも起きた事件なんじゃないかと思います。
言い換えると、横の旅ばかりさせて、縦の旅を一切させてあげなかったどころか、親によっては縦の旅ごと禁止をした。その結果が、あのような悲惨な結末だったと僕は思うんですよね。
ーーー
それぞれのイデオロギーから学び得たことを主張すると「矛盾することを言うな」と世間は言います。
でも、そうやって様々なイデオロギーに当てられることが、僕は大事だと思う。ここは自らの過去の経験を通して本当に強く主張したいところです。
世の中は最初から矛盾だらけだし、たったひとつの正解、安心安全なものなんて存在しない。存在するように見えていたら、ソレこそが一番危険な幻想であり、人工的にが作り出されたディズニーランドのような偽りのユートピアにほかならないわけですから。
ひとつひとつを自分自身で選び取っていく。その見抜く力を養うことこそ必要なことだと思うんですよね。
そのためには、繰り返しになりますが、若い時代から様々な価値観にあてられることが、本当に大事だなあと思う。百聞は一見にしかず、です。
ーーー
できる限り、仕事でも思想でも、そして人生全体でも「縦の旅」を繰り返してみること。
そして小さな火傷を繰り返しながら、その火傷が古傷として身体にもちゃんと残り続けることで、それがある種のシグナリング効果をもたらしながら「なるほど、世の中にはいろいろな価値観やあるんだな」と、身体経験を通して思えることが、何よりも自身に深みをもたらしてくれる。
それこそが心の成長であり、真の意味でイデオロギーに騙されなくなる秘訣なんじゃないのかなあと思います。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。