競争社会において、人々はとにかく結果を追い求めます。

「私は一体何を成したのか?どのように成長したのか?」

そんな他者からの承認が得られる自身の伸び率こそが、私の幸福であると信じて邁進する。

そのあいだの自身の「状態」はまったく重視しません。

具体的には「仕事で結果は出せなかったけれど、家族に優しく接することができた」や「1年間1度も風邪をひかずに健康でいられた」など心身面の達成感は二の次になる。

だから、平気で自らの身体や人間関係を壊してでも、結果を追い求めてしまう。

そうやって心身がボロボロになりながらも、他者から評価される結果こそが私の幸福であると信じて。

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そのような社会の風潮がしばらく続くと、「being(状態)を大事しよう」という流れが次第に生まれてきます。

このままだと全員が「結果」を追い求めて、多くの人々が「状態」を犠牲にしたにもかかわらず、一握りの勝者と、「結果」も得られず「状態」も失ってしまった多数の敗者を生むことになる。

だから、もっと「状態」のほうを重視しよう、と。

近年の「being」を求める風潮もまさに社会がその移行期にある兆候だと思います。

社会がある程度発展して成長の余白がなくなってしまうと、誰もが適切な犠牲のもとに、適切な努力を行えば報われるという状態ではなくなってしまうからです。

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でも、そうやって「状態」に振り切って考えると、また別問題が立ちあらわれてきます。

それは「状態」の継続だけでは決してひとは満足できないということです。

これは、よく倫理や哲学の教科書に出てくる「ハッピーピル」の思考実験を考えると、とても理解しやすい。

「この薬を飲めば主観的な幸福感が継続するし、副作用もなく心身共に健康でいられる」という魔法の薬があったとしても、多くのひとはそれに頼ることに違和感を感じてしまうはずです。

つまり、人間は主観的な幸福感がMAXの状態でも満足できないのです。

幸福感の客観性(結果)も決して捨て切ることはできない。つまり「他者からの承認」がなければ、本当の幸福感を得られないと一方で強く信じているわけです。

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だから、「状態の継続」だけでは満足できず、必ず「結果」も追い求めてしまう。

しかし、ここまで達してくると、もう以前のようにガムシャラに全速力で走ることは許されない。「競歩」のように走らなければいけなくなります。

具体的には、家事も育児もこなして、地域コミュニティにもちゃんと参加して、決して不機嫌にもならず、家族や友人関係も常に円満で、絶対に心身的にも無茶しちゃいけないというような。

そうすれば、もちろん以前よりも結果を出すことはさらに難しくなるでしょう。

全員が満面の笑みの下で、なんだかモヤモヤしているという社会はこうやって生まれていきます。

そして、「状態の継続性及びその期間の長さ」の優劣でお互いにマウントを取り合うようになってしまう。

ゆえに「他者を褒めながらも批判する」という高度に皮肉めいた表現も増えてくる。

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じゃあ、一体どうすればいいのか。

この葛藤の中にいることを理解して問い続けるしかないのだと思います。

人々が何かひとつの幸福感を信じて邁進しているときに、「なぜこうなってしまうのか?」を考え続けるほかない。

どっちつかずの葛藤の状態の中に身を置き続けることが中庸であると思いますし、そうやって考え続けて、その葛藤を越えた先にしか本当に納得できる答えは見つけられない。

なんだかそんなことを考える今日このごろです。