困難やハレーションが目の前で生じたときに、「きたきた!」と喜べるひとたちの気持ちが、20代までは全く理解できませんでした。
そんな方々は、いわゆる野次馬的な精神の持ち主であり「混乱ラバー」な方々なのだと思っていました。
でも、決してそのような野次馬タイプの方だけではないということが、30代になってやっと理解できてきたのです。
今日はそんなお話を少しだけ。
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思うに、彼らはいま目の前に立ちあらわれた困難やハレーションによって、より本質的な問題が浮き彫りとなり、それを解決することが、社会(共同体)がより良い方向に向かうための原動力になると考えているのだと思います。
つまり、目の前の荒波立つ様子が、そのままより良い方向に進むための「改善のチャンス」だと感じられるわけですね。
そして、このチャンスを受け止めて、さらに高次の状態に持っていくことが、自分自身の務めだと素直に感じられる人々。
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そんなふうに捉えることができるからこそ、多少の荒波に対してもびくともしないのでしょう。
むしろ、荒波も積極的に歓迎して、そこからさらに高次の状態に止揚させることができてしまう。
クレーマーからの意見を大切にしている経営者の方々なんかも、まさにそうですよね。
自分(たち)だけでは決して辿り着けない境地があるのだと、心の底から理解できているからこそ行える所業なのだと思います。
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この点、自然のほうに目を向ければ、海も「凪ぎ」の状態だけではダメで、嵐があるから今日も海は海たり得ています。
荒波によって、しっかりと海全体がかき混ぜられることによって、生命が循環し続ける状態が生まれている。
空と海をずっと眺めていた空海(弘法大師)が日本で初めて立体曼荼羅をつくり、その中に荒々しい仏像も初めてつくったと言われていますが、この感覚もきっと似たような感覚だったのではないでしょうか。(いわゆる荒魂、和魂の話)
だとすれば、むしろ極端に「安心安全」ばかりを求めて、波風を立てないことばかりに注力してしまうと、非常に大きなチャンスを逃してしまうことになるのかもしれません。
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他にも、たとえば倫理の分野では「なぜ噓をつくことはダメなのか」「なぜ人を殺すことはダメなのか」といった極端な問いについて考えることがあります。
こちらは、思考の中にわざと荒波を立てているわけですよね。
でもそうやって批判的に考えることによって、このような法律や慣習、ルールの根拠を自ら確かめることができる。
それを確認してはじめて、私たちが産まれた瞬間からこの世界に存在しているルールの「真の目的」を理解することができる。
そうすれば「なんとなく決まっているルールだから」と受動的な態度で従うのではなく、より能動的に確信を持ちながら、それらのルールに従うこともできるようになります。
また、仮にそのルールが時代にそぐわなくなり、変更が必要な場合にあっても、その確かめられた高次の目的に従って粛々と変更することができる。
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「人それぞれだよねー」と最初からすべては相対的なものだと割り切って、とにかく波風立てないことだけを追い求めてハレーションを避け続けていたら、絶対に辿り着けない境地、それがこの世界には存在しています。
つまりただ単に「和を成す」だけではダメなのです。いや、本当の意味で和を成すためには、荒立つことも受け入れる必要があるということなのでしょう。
そして、この境地をお互いに意識し合って、建設的に議論を行う場が真の「対話する場」だと思うのです。
このWasei(和成)Salonでも、本当の意味で「和を成す」とは何かをしっかりと問い続けていきたい。
そんなことを考える今日このごろです。
2021/12/03 11:08