「ひとは、◯◯をする生き物。」

この空欄には、利己的に振る舞ったり、他者を傷つけたり、大抵の場合はネガティブな言葉が並びます。

たしかに、人間を客観的に観察して、平均的な行動をデータにとれば、それは間違いないことなのでしょう。

しかし、その客観的な観察というのは「空間との関係性」を完全に切り離した場合が多いです。

ーーー

この点、観察者は人間の一般的な傾向を探ろうとしているのだから、不確定要素である「空間の影響」は排除しようとするのは当然のことです。

しかし、僕らはどんな空間でも同じ行動基準に従って生きているわけではないことは明白です。

たとえば、神社仏閣や教会に行ってカラオケボックスのように騒ぐひとはいないはず。

また、大切に植えられていることがすぐにわかる花壇を踏み荒らしたりもしないでしょう。

たとえ間違って踏み込んでしまっても、ちゃんと言葉にして伝えれば、どんな人でもすぐに理解してくれるはずです。

つまり、自分がいま対峙している空間をとても大事にしている人たちがいると理解した場合には、決してその空間のを無碍には扱わないのです。

ーーー

このように人間は、空間との関係性において行動が大きく変容する生き物なのだと思います。

そして、一番大きく変容する場合というのは、自分がその「内側」に入り込み、空間の文化を構成する一部になり得たときなのではないでしょうか。

それは、先人たちから圧倒的は贈与を受け取ってしまったというようなある種の「おそれ」のような感覚でも構わないのだと思います。

神社仏閣や教会のような宗教施設も、私たち一人ひとりに内在するそんな「宗教性」に訴えかけてくるから、僕らは期待される行動を自然と振る舞ってしまうわけですよね。

ーーー

このWasei Salonでも、先日のリニューアル後からより一層「自分でしっかりと考えたい、対話をしたい」という人たちが集まって来てくれています。

「何か答えを求めにくるような場ではない」と、集まるひとたちに共通の前提が存在している。

そしてアバウトページに掲載している「5つの価値観」を大切にする場であることも理解してくれていて、一人ひとりがこの空間をつくりあげるような感覚で参加してくれています。

それが文化としてちゃんと根付いているからこそ、誰もこの場を踏み荒らしたりしないのだろうなあと思うのです。

ーーー

きっと大切なことは、新たにその空間に足を踏み入れてくれるひとたちに対して、あなたのどんな部分に期待して、それを発揮して欲しいと願っているのかを明確に伝える(伝わる)こと。

その期待によって全く同じ人間であっても、行動が180度変わることだってあり得るのだから。

そんなことを考える今日このごろです。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとって今日のお話が何かしらの参考となったら幸いです。