昨日書いた前編では、「灯台もと暮らし」の話の続きとして、「今さら、ウェブメディアなんて誰が読むんだ?」という問いから出発しました。
 
参照:ひととひとの関係に、そっと「タイムスタンプ」を押しておく。

これからのウェブ記事には、AIというもうひとりの熱心な読者がつく。そして、丁寧に文脈を添えて残された記事は、ひととひととの関係性の「タイムスタンプ」になっていくはずであると。

そして、結婚記念日や入社式のように、すでにそこにある関係に、日付と形を与えてくれる、という話でした。

今日は、その続きになります。

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で、実はここからが前編を書きながら、いちばん書きたかったことなんですが、

この「文脈」と「タイムスタンプ」の話は、少し前に書いた「内の人」のブログに、ダイレクトにつながっていると思っています。

参照:AI時代、正社員ではなく、「内の人」になることの重要性。 
 
あの記事で僕は、「内の人」とは決して優しくされるひとではなく、その代わり、苦しいときにも一緒にどう生き延びるかを考えてもらえるひとのことであると書きました。

共に生き残ることが否応なしに目的化する関係そのものが「内の人」だ、と。
 
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では、AI時代に、その「内」と「外」の線引きは、どこでどうやって引かれていくのか。
 
ここで思うのは、これからの時代、僕らは何か新しい方向性を考えるとき、必ずと言っていいほど、AIに相談するようになる、ことは間違いないです。
 
誰と組むべきか、どこを削るべきか、この事業を続けるなら、一体何を守るべきなのか、などなど、AIの提案を都度参照しながら、その最終的な判断を下していくことになるのは必定です。
 
そのとき、もしAIが過去の記事やコミュニティの記録、そしてそのコンテキストから「このひととは、10年前のインタビューの頃からずっと一緒にやってきていますよね」とか「この取り組みを続けるなら、このひとたちとの関係こそが大切な前提になります」とか言ってくれたとしたら、それこそが、まさに「内の人」だとも思うんです。
 
AIが文脈を把握したうえで、「このひとは内の人ですよ」と、こちらに強く思い出させてくれるきっかけになるわけですから。
 
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そして、ここで効いてくるのが、それこそ最近何度も語っている「反復」です。
 
一回きりのインタビュー記事だけで終わるのではなく、毎月、毎年と、定期的に対話を重ねてきたというタイムスタンプが積み重なっていく。
 
その一つひとつが、関係性の重しのように、少しずつ加算されていくのだと思います。
 
結婚記念日だって、一度祝ったら終わりではなく、毎年めぐってくるからこそ、意味がありますよね。
 
「たまたま一度だけ会ったひと」と、「何年にもわたって、何度も何度も対話を重ねてきたひと」では、AIがそこから読み取る関係性の重みも、まったく違ってくるはずです。
 
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逆に、そういった文脈が何ひとつ残っていなければどうなるか。
 
AIの目には、その瞬間にあなたの目の前にいるひとは、ただの「交換可能な相手、交換可能な労働力」にしか映らないはずです。
 
たとえ実際にお互いにどれだけ深い関係性があったとしても、です。
 
そして「より安くて、より便利な代替手段がありますよ」と、とても丁寧に、そしてとても賢く合理的に説得されてしまう。

このときに反駁できるひとが一体どれだけいるのかは、結構怪しいなと思ってしまいます。
 
まさにあの記事で書いた、フィジカルAIに真っ先に置き換えられてしまう「外の人」の話は、きっとこうやって、静かに現実になっていってしまうんだろうなあと。
 
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もちろん、記録さえ残しておけば「内の人」になれる、なんていう虫のいい話ではありません。

そこはくれぐれも誤解しないでほしいポイントです。
 
もちろん逆に当然、AIに推薦されることが、関係性を保証してくれるわけでもない。
 
それでも、その関わりの事実を、丁寧に文脈を添えて残しておくことには、これまで以上に、大きな意味が生まれてくるんだ、特にAI視点において、ということを、僕は2026年現在、今ここで強く主張したいのです。
 
儀式がなくたって、その日の写真を撮らずアルバムに残さなくたって、僕らは生きていけるけれど、あえてそうすることにも一定の価値が宿るのと、同じようにです。
 
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まさに、霊的成長は「つなげておいたから」という話にもつながります。
 
これからは、この「つなげておいたから」を、ありとあらゆる形で、それこそ後からは覆すことができない「タイムスタンプ」を押すようにやっていくことになるんだと思います。
 
ひととひとを直接つなぐだけでなく、その関係の文脈ごと、AIも読める場所につないでおくこと。村上春樹風に言えば、配電盤のように、です。
 
そう考えると、ウェブメディアやオンラインコミュニティというのは、ある意味で「共有公開ファイル」のようなものなのかもしれません。
 
チームでひとつのファイルを共有しておけば、あとから参加したひとも、そこまでの経緯をしっかりとたどることができるし、僕らの関係性のコンテキストを共有しておくための場所にもなり得る。

もちろん、そこには一切ウソの記載もないわけです。
 
そこに参加している人間ひとりひとりが、ブロックチェーンの台帳代わりをするわけですから。
 
たとえばの話、仮に家族じゃない人間が、家族のアルバムに写っていれば、家族のうちの誰かが必ず気づくように、なんです。
 
逆に言えば、極端な話、僕らはそういうモノの存在をみて「私たちは、家族だ」と認識している場合もある。
 
いや、ともすれば、そっちのほうが実在や本質だったりもする。

これは一見すると変な話に聞こえるかもしれないですが、まったく見ず知らずの人間を「これが、あなたのおじいちゃんよ」と家族アルバムで指さされて、孫が無条件に信じるようにです。

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ただ、その記憶を、誰かひとりの頭のなかにだけ置いておくには、やっぱり限界がある。
 
当事者でも忘れるし、あとから加わったひとには、そもそも伝わってすらいないかもしれないわけで。
 
だからこそ、人間にもAIにも参照できる場所に、ちゃんと置いておくんだ、って思います。
 
それが、ほんとうの意味で、全員の足跡につながっていくんだと思います。
 
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つまりこれは、みんなで大きな「共有アルバム」をつくるような行為なんだと思います。
 
これからは、共有アルバム作成合戦みたいなことが各所で起きると思っています。
 
そして今は、その大きなアルバムをあとから何度でも一緒にめくってくれるAIがいて、別々のページに貼られていた写真と解説を見比べながら、「ほら、ここにもつながりがありましたよね」と、懇切丁寧に繰り返し繰り返し僕らに教えてくれるわけです。
 
だからこそ、この世界で一緒に生きていた思い出を、あとからちゃんと思い出せる形にしておくことが、ここから本当に、どれだけ強調しても足りないくらいほんとうに、大事になってくるんだろうなあと。
 
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前編の冒頭の「今さら、ウェブメディアなんて誰が読むんだ…?」という問いに、今の僕が答えるとしたら、きっと以下のようになります。
 
公開した直後に、たくさんのひとに届かなくたっていいから、何年後かに、僕らがAIと一緒にもう一度めくり直すためにこそ、今日もタイムスタンプを押すように共有アルバムに一枚ずつ足していくんだ、と。
 
記事の公開日や入会日が、日付のある「点」となる。その点と点を、AIが文脈をたどりながら「線」でつないでくれる。
 
そして、その線が何本も引かれていった先で、それらをぐるりと囲む「円」が生まれてきて、そこでようやく見えてくる。
 
「大丈夫、安心して。みんなちゃんとつながっているよ。」と

「同じ輪のなかにいるよ。決して排除されたりなんかしないから。」と。
 
そして、「あの頃から、僕らはつながっていましたよね」と言える、その証明の参照元になれることこそが、ウェブメディアやオンラインコミュニティのこれからの価値なんだと思います。
 
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で、振り返ってみれば、僕がウェブメディアやオンラインコミュニティを通して、ずっとやりたかったことは、きっとこういうことだったんですよね。
 
この輪(和)のなかに、みんながちゃんといる。それこそがWaseiであり「和を成す」ということなんだと、昨日から今日にかけて心底ハッとさせられました。
 
だから僕は、これからも丁寧に文脈を添えて、共有アルバムのような足跡をみなさんと一緒に残していきたいと思います。
 
もちろん、まずは人間のみなさんに読んでもらうためにが第一優先です。

そして、あとから、それらをすべて読み返してくれるAIがいる時代だからこそ、これから注力していきたいことでもある。
 
今日のお話から、そんなことがなんとか少しでも伝わっていたら嬉しいです。
 
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、何かしらの参考となったら幸いです。