先日、タイムラインでも共有しましたが、Xで、あるコンビニの張り紙の写真が話題になっていました。

https://x.com/mmmyyysss9/status/2104078084966322664

「当店には、外国人スタッフがいます。大切な家族のような存在です。温かい心で見守って下さい。」

この投稿はとても好意的に受け止められていて、温かい反応がたくさん並んでいましたが、でも、僕はこれを読んで、なんだかものすごくモヤっとしてしまいました。

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もしこの張り紙に、以下のようなことが書かれていたら、僕らは一体どんな風に感じるのか。

「当店には、偏差値40の高校生が働いています。家族みたいな存在なので、温かく見守ってください。」

スタッフの属性をわざわざ示し、お客様に「温かく見守って」と求める構図は、こちらにも同様にあるはずなんです。

でも、こちらに関しては決して「いい話」では済まされない。オーナーの責任を問う声も出るはずです。

「そんな張り紙を貼る暇があったら、もっと高い給料を払って、いい人材を採用しろ。もしくは、高校生アルバイトであっても、ちゃんと教育しろ」と。

じゃあ、なぜ「外国人スタッフ」になった途端、同じ言葉が美談になるのか。

今日はそのことについて、少し考えをまとめながら書いてみたいと思います。

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もちろん、これがあまりにひねくれた意見だということは、自分でもよくわかっています。

でも、これはもう「コンビニ人間2世」の定めなんですよね。

先日、F太さんとのVoicyでも少しお話ししたのですが、僕の母は、地元でセブンイレブンを2店舗経営していました。


冗談抜きで、コンビニという商売に食わせてもらい、育ててもらった側の人間です。

そして子どもの頃から、何度も見てきたのが、アルバイトの不手際のせいで、母がお客様に頭を下げる姿でした。

幼心には、それがただただ「バカなアルバイトのせいで、お母さんが謝らされている」としか見えなかった。その光景が、今でも脳裏にしっかりと焼き付いています。

あのコンビニという仕組みに苦しめられもしたし、生かされもしたわけです。

そして、Voicyでは「近すぎて、肯定も否定もしがたい」と話したのですが、今もその感覚はまったく変わりません。やっとこの年齢になって、少しずつこうやって言葉にできるようになってきた自覚もある。

だからこそ、コンビニの現場の話になると、外から眺めた「いい話」だけでは、どうしても済ませられない性分なのだと思います。

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それで今回、あのバズっていた張り紙を眺めながら、改めて気づいたことがあります。

母は、なぜお客様に頭を下げていたのか。それは、そのアルバイトが「内の人」という社会的な建前があるからなんですよね。

うちのお店の人間がやらかしたことは、当然、それはうちの責任になる。だから、オーナーが出ていって謝るのも当然。

そして裏では、二度と同じことが起きないように、厳しく教育をしたりもするわけです。

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つまり、日本人の若いアルバイトは、教育されるべき人間であり、つまり「内の人」として数えられていなければいけない存在。

だからこそ、「ちゃんと教育しろ」という世間的圧力が、オーナーにもかかる。

一方で、あの優しそうな張り紙は一体何を言っているのか。

もちろん、外国人スタッフに理不尽に当たらないでほしい、という呼びかけなのかもしれません。

でも、僕にはそこに、「多少のことがあっても、温かく見守ってください」という、別の響きも聞こえてしまう。

その人の不手際を店が引き受けるよりも先に、お客様の側の寛容さを求めてはいないか、と。

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この張り紙だけで、実際の教育や責任の取り方まではわかりません。

ただ、僕が引っかかるのは、「温かく見守る」だけで、その人を仲間に迎え入れたことにできてしまう、その感覚です。

結局、日本人にとっての「外国人」を、いつまでも「外人」。そういう線引きがあるんだと思います。

そして、外人は、教育の対象ですらない。あくまで、ただの労働力なんです。

猫型配膳ロボットの不手際に怒るひとはいないように、ただの労働力としてしか見ていない。

だから、京都人みたいなテンションで「よう頑張ってはるなあ」とも言えてしまう。外国人は、文字通り外人であり、「外の人」。

養老孟司さんふうに、もっと極端に言ってしまえば、完全に「人の外」扱いです。

でも、そんなの、全然優しくないなと僕は思います。

ここは、どれだけ世の中と見方が違ったとしても、僕はそれこそがいちばん優しくない立ち振る舞いであると言い切ってしまいたくなります。

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そもそも、「大切な家族のような存在です」という言葉そのものに、僕は引っかかるのですよね。

本当の家族のことを、わざわざ「家族のような存在です」と紹介する人はいません。

もちろん、このオーナーに悪気があるとは、僕も思っていません。むしろ本気でスタッフのことを大切に思っていて、この張り紙を書いたのでしょう。

でも、そんな善意と「外の人」という線引きが、本人のなかで矛盾なく同居できてしまうとしたら、だからこそ、たちが悪いなあと思うのです。だってそれって無意識だから。

日本人の本音と建前は、本人すら自覚していないところで働くわけです。

建前を心から信じたまま、いざというときには、本音のほうで判断をする。そして、その本音が表に出てくるのは、いつだって、生き残りが厳しくなったときです。

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たとえば、フィジカルAIが、人間のアルバイトよりもずっと安く手に入るようになったとします。

そのとき、コンビニはどうするか。ただの労働力として雇っているのであれば、そちらに必ず置き換えるはずです。

外国人アルバイトスタッフと共に、何としても生き残ろうとは絶対にしない。

真っ先に首を切って、本当の「内の人」であるオーナー家族や、長い付き合いのある日本人スタッフだけを残す。

「家族のような存在」という言葉の意味が問われるのは、そのときなんです。コンビニの経営を内側から見てきた人間として、この判断がきれいごとでは済まないことは、断言できます。

苦しくなったとき、その数字のどこから削るのか。そこで、誰が「内」であり、誰が「外」なのかが、容赦なく露わになるわけです。

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そして、今日のような話は何度も何度も、日本史が証明してきたことでもあります。

江戸幕府の外様大名の立ち位置なんかはわかりやすい。

そして、近年のリーマン・ショックのあとの「派遣切り」だって、まったく同じ構造でしたよね。

正社員という「内の人」を守るために、真っ先に切られたのは、派遣社員という「外の人」でした。

日本という社会は、ずっとそうやっていつだって「内の人」を守ってきたんです。

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で、ここまで読んで、「まあ、外国人労働者の話でしょ」と思った人も多いと思いますが、それはきっと誤解です。

これは、AIが登場してしまった今、全日本人にまつわる話です。

あの張り紙の「外国人スタッフ」は、そのまま未来の自分たちの姿だと思います。

そして、もう十分に伝わっていると思うのですが、つまり「通い編集者」企画とは、これからは「内の人」になる必要がある、という僕なりの警鐘の鳴らし方なんです。

「内の人」にならないと、首を切られるぞ、と。

今は「フリーランスよりも正社員に戻る」みたいなことがひとつのトレンドになっていますが、別に「正社員」という肩書だから安泰なわけではない。

正社員でも、それが「外の人」であれば、なんやかんやで理由を付けられて人員削減の対象にされることも間違いない。

今回のAI革命は、世界単位や国家単位で起こる変化だから、コロナ禍のように、法律自体が変わっていく未来だって十分にあり得るわけです。

超法規的措置が取られても、何の違和感もないフェーズです。

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そう考えると、歴史のなかで、ほんとうの意味で「家族」になるために、娘を嫁がせ合ってきた理由なんかもとてもよくわかるなと。

血縁であれば、能力なんて関係がないですからね。それが血縁の持つ有無を言わせない人類史的な力でもある。

あとは、意外にも、犬なんかもわかりやすいと思います。

犬ほど、家族という関係を超えた家族もいない。犬をバカにしがちですが、日本人にとって最初は文字通り「人の外」の存在にもかかわらず、犬ほど絶対に食わせてもらえる存在も、そうそうないと思います。

では、「内の人」とは何なのか。

ひとつだけはっきりしていることは、内の人は、決して優しくはされないということです。
その代わり、何かあれば一緒に頭を下げてもらえる。苦しいときには、一緒にどうやって生き延びるかを優先的に考えてもらえる。

というか、共に生き残ることが否応なしに目的化することそれ自体が、「内の人」の定義だと思います。

一族郎党までを内の人と見なすひともいれば、自分の配偶者や子どもしか内の人だとみなさないひともいる。

その範囲こそがつまり、帝王学や経営者の力量なんかにも含まれているだろうなあとも思います。

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逆に、その裏返しで、外の人には日本人は驚くほど優しい。最初から叱らないし、期待もしない。

「よう頑張ってはるなぁ」と、温かく見守ってくれるわけです。そして、より安くて、より便利なものが現れたら、あっさりとそちらに乗り換えられる。

外の人には優しく、内の人には厳しい。これが、日本という社会の本音だと思います。

インバウンド観光客でも、日本人観光客でも、よりお金を運んできてくれれば、どちらも丁重に扱う外の人であり、お客様。湯婆婆的な世界線。

(逆に言えば、湯婆婆は、自ら働く意欲を見せる千尋に対しては、どれだけ厳しく当たっても「外の人」にはできない。それがハクさまが与えてくれた千尋への助言であり、あの世界、つまり湯屋のルール。)

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あとは、お互いさま、おかげさま、という言葉なんかもまさにそうです。

互いに面倒を見合いながら、共に何があっても生き抜いていく。そうやってお世話をし合う。

まさに「お世話になっております」から始まり、「よろしくお願いいたします」なんです。

そのメールの定型文の形式化する以前の関係の中に入れてもらえるかどうかが、日本ではすべてなんですよね。

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もちろん、これは本当に、良くも悪くも、だとは思います。

内の人になるというのは、現代的にみれば非常に面倒なこと。しがらみも生まれるし、断りづらいことも頼まれます。

契約書の範囲で、きれいに割り切れる関係性ではなくなるし、仕事の問題が生活やプライベートまで流れ込んでくる。

だから、「そんなウェットな関係性はイヤだ。成果物だけで、ドライに評価されたい」と思う人もいるでしょう。

でも、それはつまり「外の人のままでいたい」と言っているのと同じなんだと思います。そしてそれが日本でも通用したのが、AI以前の去年ぐらいまでの話。

ちょっと前がいちばん古い、とはここでも通用する話だと思っています。

そして、成果物だけのドライな評価で、人間が勝てる場所は、AIによってこれからどんどん狭くなっていくことも必定。

従来の能力主義、そこで比べられたら、人間はもう絶対に勝てなくなってくる。

面倒は一切引き受けずに、自分だけは交換されない存在でいたい。そんな虫のいい願いは、少なくともこの国ではもう通らないんだろうなあと。

繰り返しますが、良いか悪いかではなく、日本で生き残るというのは、そういうことなんだと思います。

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「大切な家族のような存在です」というあったかい言葉を、信じちゃダメなんだろうなあと。

もちろん「正社員」という、法的な関係性なんかも、信じすぎるのはよくない。それは幕末に、「武士」という身分にすがった武家の人々と同じ道を辿ることになってしまうはずだから。

法律に守られていることと、「内の人」であることは、決して同じではないんです。

この日本人の本音と建前の絶妙な違いが今日の内容から伝わっていたら、ほんとうに嬉しいです。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、何かしらの参考となったら幸いです。