現代は「矛盾」がとても嫌われる世の中です。

論破合戦の世界では、少しでも隙があるとその矛盾をつかれてしまいますね。

ゆえに多くのひとが、自己の一貫性を追求して、理論武装し続ける。

でも、果たして本当にそれがあるべき正しい姿なのでしょうか。

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この点、『ガンディーに訊け』という本を最近読み終えました(著者は中島岳志さん)。

この本を読むと、ガンディーは意外にも矛盾だらけのひとだったことに気付きます。

宗教家でも、政治家でもない、ガンディーはガンディーとしか言い表せない。その理由はまさに、両者の肩書きのあいだに生まれてくる「矛盾」から、ガンディー自身が決して逃げなかったからなのだと思います。

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多くのひとは、その矛盾に引き裂かれることを極端に嫌がり、自分の立ち位置やポジションを明確にしようとしてしまう。だからこそ、わかりやすい「肩書き」を求めて、はやく安定したがるのでしょう。

たとえば宗教家は、俗世を捨てて出家する。それは、自らの中に存在する超越性や宗教性を担保し続けるためには、俗世と付き合っていると必ず矛盾が生じてしまうからです。

一方で、活動家や実業家と呼ばれるひとたちは、そんな宗教家が持ち出す超越的な論理を「絵に描いた餅だ」と批判しながら、自己に内在する宗教性という痛覚は完全に断ち切って行動してしまう。

学者は学者で、学問の一貫性ばかりを追い求めて、学問の世界に完全に引きこもってしまっています。

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しかし、そうやって各人が他者から矛盾を追求されることを極端に恐れて、一貫性ばかりを追い求めてしまうと、逆に理想の世界からはドンドン遠ざかってしまう。

それがわかっていたからこそ、ガンディーは矛盾することを決して恐れなかったのでしょう。

それは「矛盾を受け入れた」というよりも「実践する中で生まれてくる矛盾さえもしっかりと抱きしめながら、それでも歩みを止めなかった」という表現のほうがきっと正しい。

言い換えると、超越性や宗教性の論理を大切にしながらも、それをそのまま論理で説得するのではなく、自らの身体を使って、日々実践する中で説得しようと試みたわけです。

そうすると、必ず失敗もするし、矛盾も発生してしまう。でも、決してそれを「悪」だとは見做さなかった。

ガンディー自身が自分の人生を「実験」そのものだと主張し続けたのも、きっとそこに理由があったのだと思います。

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超越の論理を明確に思い描きながらも、常に現実にもコミットし続けることの重要性。

「どうしても、壁にぶつかってしまう…」そんな自己に内在する矛盾に絶望している若いひとにとって、ガンディーの人生はとても励まされるものであるはずです。

『ガンディーに訊け』はとてもオススメの本なので、ぜひ読んでみてください。

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いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとって、今日のお話が何かしらの参考となったら幸いです。

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