もし本当に「私」の中に「私らしさ」という固有の何かが存在するのだとしたら、

それは自分が生まれる前から存在していて、自分が死んだ後にも継続しているものでなければ、おかしいはずです。

今日は一風変わったそんなお話を少しだけ書いてみようかと思います。

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思うに、社会一般的に語られている「私らしさ」とは、自己分析や、親しい友人や家族に「私ってどんなひと?」と聞くなどして、たどり着く「性格」のようなものだと思われています。

でもそれは、「自分とは何か」を真剣に考えたことのない人たちが、他人に「自己」を説明するときのためだけに作り出した虚像に過ぎません。

他者と共に特定の組織の中で働くうえで、自分が他者より秀でている性格、その説明及び自己査定(立証責任)が求められているから、しぶしぶ自分の「機能」を取り立てて説明するために用意しているものに過ぎない。

それは、「背が高い」とか「足が速い」とか、身体的な特徴と何も変わらず、心の内面を取り立てて言語化し、説明しているだけです。

身体的な特徴であれば一目瞭然であっても、心の特徴は他者からは目に見えませんからね。

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しかし、そうやってたどり着いた結論を「私らしさ」だと捉えてしまうと、身体的な特徴が「私らしさ」だと誤解するのと変わりません。

「足が速い」ことそれ自体が、私の本質だと思うひとは誰もいないでしょう。

なぜなら、赤ちゃんの頃はそのスピードで走れなかったはずですし、これから年老いていけば、また同様にそのスピードで走れなくなる日が必ずやってくるのですから。性格だってそれと同じです。

生きている間、ずっと私の中で貫き通されているものが、本当の意味での「私」そのものでなければ、論理的におかしいはずです。

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つまり、一般的に思われている「私らしさ」というのはあくまで、人間社会の関係性の中での「あなた」が社会的に(今この瞬間だけ)担える役割でしかない。

たしかに社会の中では、それをお互いに「私」と「あなた」の本質であると認識し合って、その共同幻想のもと成り立っていることは間違いありません。

しかし、それは舞台や劇中の「配役」みたいなものでしかない。

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その証拠に、それぞれの場面で引き出されている私(分人的なもの)は、全く異なるはずです。

家族、友人、同僚、上司、それぞれの対人関係、場面の中で都度都度出てくる「私」の性格はすべて異なる。

それをすべて「私」だと思い込み、「私らしさ」とは何かを考え込んで頭を抱えてしまっているのが現代人です。

それぞれの前で現れてくる「私」同士の中に存する「矛盾」に引き裂かれて、精神病になってしまうのも当然です。

だからこそ、この分裂に耐えられなくなったひとたちは、「自由に生きる!」と息巻いて、その配役(引き出される私)を極端に絞り、どんな舞台、誰の前に立っても同じような自分であろうとする。

でも、そこに決定的に欠けているものがあります。

それが「成熟」です。つまり、いつまで経っても大人になれない。

なぜなら成熟とは、都度都度現れてくる私を、目の前の状況に合わせながら適宜、解像度高く調整していく能力に他ならないのですから。

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ということで、ここまで読んでくださった方には、いかに社会一般的な「私らしさ」とされているものから、距離を置いていくか、それが大事であることはなんとなく伝わってくれたかと思います。

じゃあ、本当の意味で私を「私」たらしめているものは、一体何かをあらためて考えてみましょう。

今日も変わらずに、この身体と心を動かし続けている「何か」のほうに目を向けて、もっともっとそちらに意識を向けてみる。

つまり、社会的に「私らしさ」と呼ばれているものをどんどん剥がしていく作業こそが、本当の私を発見するための作業なのだと思います。

そして自分という存在を構成する心も身体も、実はその「何か」の「通り道」でしかなかったことに気がつく。

この私を通り道として、なるべく摩擦係数ゼロの状態でスルッと「何か」を通らせることができたとき、ひとは一番自由自在、本領発揮をすることができる。

それは、社会一般的な「私らしさ」に固執するときの何倍、何十倍にも力を発揮できるような状態です。

にも関わらず、自分という「通り道」に付着しているゴミや汚れのようなものを指さして、これが「私らしさ」だと捉えているのが現代社会。

もっともっと、スッと通してしまいましょう。

そして、その「何か」の出どころは、みんな大して変わらないことにも気づけるようになるはずです。

だからこそ自然や他の生物を見ながら「あれは自分自身だ」と本心から思えるようになるってくる。

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さて、なぜ突然今日のような話を書き出したのかといえば、最近僕のまわりでは出産ラッシュで赤ちゃんを見る機会が増えたからです。

このように考えてこないと、「赤ちゃん」という存在自体の説明がつかないのです。

理性の発達や、自己の身体の自覚もままならない赤ちゃんが、立派に生かされているその理由がわからない。

赤ちゃんの状態のときから存在するものが、本当の意味での「私らしさ」、私の本質であるはずです。

だとすれば、彼らが一体何に生かされているのかを考えてみなければいけない。その時からずっとずっと変わらずに、彼らの中(つまり私たちの中)にあり続けているものが「私」の本質にほかならない。

昔のひとは、それを「霊魂」や「気」と呼んだのでしょう。

生まれる前から存在していて、死んでからも存在し続けるもの、合理的な推論をしていくとそれ以外に辿り着かないはずなのです。

なるべくこのブログではスピリチュアルだと思われてしまうような話は書かないように気をつけているのですが、今日の話は書かずにはいられなかったので、ついつい書いてしまいました。

いつもこのブログを読んでくださっている方々にも何かしらの参考となったら幸いです。