ちきりんさんがVoicyの中で、「もう一度、日記を書く!」というお話を最近していました。
プレミアムリスナー向けの有料配信なので、詳しいことは書けないのですが、なんだかとてもよくわかるなと思いながら聴きました。
で、この配信を聞きながら、直接の本編とは全く関係ないのですが、誰にも見せない自分だけが読む「日記」を書いて、それをAIだけに読み込んでもらい、小説や音楽、映像やアートなど別コンテンツとして出すという流れは、今後来そうだなと感じました。
つまり、どこまでが虚構でどこまでが真実かわからないような、セルフ自伝本というか小説みたいなものが生まれてくる可能性は十分にあるよなあと。
いわゆる「原作文化」みたいなものです。
今日はそう考える理由や背景みたいなものを、少しこのブログの中でも考えたいと思います。
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この点、今はSNSが広く社会に普及をし、つぶやきのような短文テキストから音声・写真、動画に至るまで、そのすべてが始めから「見せるモノ」前提になりすぎてしまった。
それゆえに、何かコンテンツをつくり始める前のタイミングから「どう見られるか」を考えながら筆を取ってしまうわけですよね。
もちろん、そうすることで「お客様目線」が養われるし、枝葉末節は切り落として、本質部分だけを伝えようと試行錯誤するなかで、磨かれるメッセージ性というものは確かにある。
しかし、その一方で、絶対に触れない部分を最初から作り出し、その内容を排除してしまう。それは、自分自身が“見せられない部分”だと完全に決めつけているからです。
でも実際には、人間の本質や弱さ、そして本当の意味での強さみたいなものは、こうした隠れた部分に宿っていることが多いわけですよね。
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この点、これはもう6〜7年前の話になるのですが、松浦弥太郎さんがとあるトークイベントの中で、「ご自身が小説を書かない理由」みたいなことを語られていて、その話が今でもとても強く印象に残っています。
松浦さん曰く、エッセイを書くときは全く異なる「開けてはいけないパンドラの箱」を開けてしまうような感じがある、そんな風におっしゃっていたんですよね。
とはいえ、そのようなパンドラの箱の中身とも、いつかしっかりと向き合わなければいけないというようなこともおっしゃっていて、もしかしたら自らが小説を書く未来があるような話をしていたはずであって、なんだかその話が今でもとても強く印象に残っています。
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誰にでも、自分の本質的な部分を人前にさらすことは、はばかられる部分がある。
でも、そのような深い部分で人と人とが共鳴し合うことも事実です。
それゆえに、僕はずっと「適切な距離を取るための編集」みたいなことを心がけてきた感覚もあります。
僕は編集というのは、主に「距離感」の問題であり、その距離感を間違うと必ず齟齬が生じるわけだから「不一致をなくすこと」が大切。それがお互いが争わないためにいちばん大事なものだと思っていたんですよね。
そのために「クローズドな空間づくり」みたいなことにも必死で注力してきたわけです。
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で、同様に、聞かれすぎない場所に出すことの意義みたいなものを、同じくVoicyで批評家・若松英輔さんのチャンネルの配信を聴いていていつも感じます。
若松さんは、NHKにも頻繁に出演されているわけだから、本当はyoutubeなどで配信をすれば、より多くの方々に若松さんのお話は届くはずなんだけれども、あえてそうはしていない。
Podcastでもなく、Voicyという一番ハードルが高く能動的に自ら聴こうとしないと聴けない場所で配信されている。そして1作品ずつ、有料にしてペイウォールを意図的につくりだしている。
最初は「なぜわざわざこんな奥まったところで、こんな大事なお話をしているんだろう?」と不思議だったのですが、奥まったところだからこそ大事なお話ができるわけですよね。
そして、奥まっているところにやってきているからこそ、僕らリスナー側もそれを大事なメッセージとして受け止めることができるわけです。
特に、若松さんは「宗教」や「魂」の話を真剣になさる方だから、誤解されない場所に出すことの意義みたいなものを強く感じていらっしゃる方なんだろうなあと思います。
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このように、距離感は非常に重要なポイント。
コンテンツのつくり手側が「誤解されるかも」と感じて、その前提ゆえに相手目線に立ちすぎてしまうのも、それはそれで良くないことです。
それよりも、より本音に近いもののほうがドンドン大事になってきているし、その価値がより一層、出てきているのがまさに今だと思います。
で、その究極の一番狭い範囲は自分だけ。自分のためだけに、日記を書く。
とはいえ、そんなことをしても広がっていかないから、みんなやってこなかったわけです。
でも、現代の特殊性は、誰にも見せない日記を書いて、それをAIだけに読ませるということが可能になる。
そして、AIだけが読み込んで、それを小説や音楽、映像やアート作品など別コンテンツとして出すということもできるようになってきているわけです。
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少し話は逸れますが、僕が最近のTwitterが地獄だなと思うのは、たとえ自分が主張している内容が間違っていても誰からも何も言われない、そうやって無視されることのほうだと思っています。
炎上することのほうが稀。
そして、それはリアル世界において、会社や友人関係でも同様の出来事が起きている。それが一番残酷だなと。だって、どれだけ誤ったことを発信しても、スルーされるわけだから。
でもこれは逆説的なんですが、それゆえにみんな余計に「他者のまなざし」を内面化させていくわけですよね。
「もしかしたらこう思われているかもしれない、ああ思われているかもしれない」そんな風に、ドストエフスキーの『地下室の手記』の主人公みたいに、勝手に頭の中に他人の声を作り出し、それに惑わされて、より一層ドツボにハマっていく。
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それよりも、もっと深く静かに自己と向き合う時間こそが大事なはずなんですよね。
で、こちらも逆説的でものすごくわかりにくい話なんだけれども、その深さこそがたぶん、これからのコミュニティ的なつながりを生んでいくのだとも思うのです。
その「考える時間」と言い換えてもいい。考えた深度に共鳴し合って、人と人とは出会い、コミュニティを築いていく。
これからは、AIのおかげで(AIのせいで)、普段から考えているひとと考えていないひと、そうやって2極化されていく。
また、それであっても表面的には簡単に出会えるし、一方で、地下二階で直接出会えるようにもなっていく。
だとすれば、余計に僕は、ちゃんと自己と向き合うことが大事だなあと思います。
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そして、その深さを他者に伝わりやすい形、もしくは晒したくない恥部を見事に虚実入り混ぜてぼやかしてくれて変換してくれるのは、AIの役割になるんじゃないか。
どこまでが真実で、どこまでがフィクションなのかもわからない、そこには唐突に幽霊とかが出てきてもいいわけですからね。
そのあわいのようなコンテンツをつくるのは、たぶんAIのほうが得意であって、その原作者は一体誰なのか、という話に注目が集まっていくような気がしています。
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とはいえ、ここでくれぐれも注意したいことは、深刻にならないことも大前提。
真剣である必要はあるけれど、深刻である必要はまったくない。
昨日、Wasei Salonの中で読書会が開催された養老孟司さん『人生の壁』の中にとても大事なことが書かれてありました。
今日の内容にも深くつながる部分だと思うので、少し引用しておきたいと思います。
どうも真剣さと深刻さを混同している人がいるよ うに思います。つまり、その人の心の闇とか、過去の辛い体験を正視することを勧める風潮です。 そういうものと正面から向き合わないと前へ進めない、といった意見はよく目にします。
とくに学者はそういうことを言いがちなのですが、向 き合う義務なんてありません。誤魔化すのも一つ の手です。それで自分自身の気分が良くなるならいいではないですか。
無理やり辛い体験など を思い出す必要はないのです。忘れていて日々が暮らせるのならそれでいい。
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ひとは、いくらでも深刻になれるし、実際AIもそのサポートをしてくれる。
でも、そこには頼らない。
そうじゃなくて、自分で真剣に深ぼりをしていく。AIのサポートを受けず、まずは自らで、自分だけのための日記を書くように深堀りをする。
そのうえで、到達した場所を原作として、AIに渡して、別の形のコンテンツに落とし込んでもらう。そのための「原作者」になっていくことが、ひとつの道としてこれから確立していくのかもなあと思います。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。