広島のひとが「広島焼き」と言わないように、鹿児島のひとが「さつま揚げ」と言わないように、伊勢のひとが「伊勢うどん」と言わないように、その地域に暮らすひとたちは、その固有名詞を用いていない場合ってよくあります。

じゃあなぜ、そんな「地域+名詞」が生まれてくるのかと言えば、その地域の外のひとたちが理解するために生まれてきた「言葉」なんですよね。

共同体の外部から突然ひとがやってきて「これは一体何か?」と相対化したときに初めて、その概念や名前が生まれてくるわけです。

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このように、それまでは当事者同士がザックリと思い描いていたもので、その要件定義が曖昧でバラバラでよかったものが、外から人間がやってくることによって、ちゃんと言語化してその要件定義をハッキリさせる必要が出てきてしまう。

このときにはじめて、集団内での対立や軋轢が生まれくるのだと思います。

「◯◯が入っているのが◯◯である。本家本元はこれなんだ!」と。

しかも厄介なことに、このときに理解するためにあてがわれる「ものさし」というのは、大抵の場合、それを問いただしてきた外部の人間の「ものさし」を用いることになるわけです。

当然ですよね、聞いてきた相手をちゃんと理解させなければいけないわけですから。

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たとえば、日本の「神道」だって、最初はきっとそうやって生まれてきた言葉だったのだと思います。

仏教やキリスト教が日本に入ってきたことにより、結果としてそれまでの日本の中にあった「宗教的な何か」を総称して、要件定義をはっきりさせる必要が出てきてしまった。

だから、本当は順序が逆なんです。外のひとに説明を求められて、それまでにそこに生じていた自然発生的な「関係性」を、他者に説明するために生まれきたのが、いわゆる「名前」であり「定義」であると。

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そうやって、外部の人間にわかりやすく説明しようとした瞬間に、少しずつ物事の本質からはズレていくのは必定です。

たとえば、上述した神道の例で言えば、西洋文化のひとが「最上位のゴッドはひとりだ」という無意識の前提(ものさし)を持ち合わせているからこそ、「おまえたちの国の宗教は『八百万の神々』だとは言いつつも、そこにはヒエラルキーが存在しているんだろう?トップの神は一体誰なんだ?」と強引に聞かれてしまうことになる。

そのときに、答える側は、その「ものさし」で言えば天照大神だとか、それを生んだイザナギノミコトだとか答えざるを得なくなる。

でも、やっぱりそれは最初の関係性からは大きくズレていってしまっているんです。

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これは国や地域の話に限らずに、二人以上の人間集団が存在すれば、必ず生まれてきてしまう問題であり、集団の大小は関係ありません。

たとえば、夫婦という最小単位の集団だって同じ。お互いになんとなく暗黙の了解として家庭内で成立していたことが、家庭外の人間に聞かれて、その質問に答えている中で、実はお互いにまったく違う認識をしていた結果、うまくまわっていたことが明るみになってしまったりする。

そのときにはじめて、夫婦間で軋轢やケンカが生じ始めるという場面は本当によく見かける光景ですよね。

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このように、自分たちの「ものさし」によって無邪気に理解したいと願う外の人たちが、その集団の自然発生的な調和の空間を勝手に踏み荒らしていく。

子供同士がとても楽しそうに「遊び」をしているとき、大人が混ぜてほしくて、「何して遊んでいるの?ルールを教えて」ってお願いしたら、両者の子供が全然違うルールの認識で遊んでいたと発覚した場合、このときに外部からやってきた大人は「やっぱり子供はバカなんだ」と解釈するけれど、実はそんな大人のほうが完全に誤っているのかもしれない。

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人間の集団が交流する以上、このような事象は決して避けられることではありません。

だからこそ、このような軋轢を生むきっかけに自分自身がなっているのかもしれないと、常に畏怖と敬意を持って他の集団と接すること。

せめて相手の「ものさし」から理解しようとする姿勢が、本当に大事だなあと思う今日このごろです。

今日のお話がいつもこのブログを読んでくださっている皆さんにとっても、何かしらの考えるきっかけとなったら幸いです。