人生において、「決断」は非常に重要なことです。
ストーリー(物語)が進んでいくためには、常に「Aか、Bか」の決断の連続が必要になるからです。
特に昭和世代の方々は、そうやって自らの人生を切り拓いてきたという自負があるから、より一層「決断の重要性」を語ってしまいます。
でも、果たして本当にそうなのでしょうか。
どちらも同じぐらい欲しているという場合において、本当にその「葛藤」を諦めなければいけないのでしょうか。
今日はそんなお話を少しだけ。
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たとえば、複業。
今から10年ほど前「複業なんてけしからん、どちらか一方に決断しろ!」という世間の圧力は本当に強かったです。しかし、今では複業は何の変哲もない当たり前の選択肢となりました。
それはやっぱり、どちらも求めて最後まで諦めずに実践してくれたひとたちがいたからだと思います。
未来がどうなるかはわからない中でも、最後まで二者択一の決断しなかったひとたちが、結果的に複業の道を切り拓いてくれたわけですよね。
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このような転換期において、とても大切なことは、その葛藤の最中にいるひとに、ちゃんと寄り添ってくれるひとがいるかどうかだと思います。
つまり「決断を迫らない」ひとたちがいたからこそ、実現できた世界というのは間違いなく存在する。
この10年間で、なぜ複業が解禁されるまで進んだかと言えば、SNSで横のつながりが生まれたことにより、そうやってお互いに寄り添い合えるひとたちと出会えたことは間違いないと思います。
仮にひとりひとりが孤立していたら、決して拓かれることのなかった道なのだろうなあと。
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会社、とくにスタートアップのような企業は、とにかく「決断」が命です。そうやって常に目の前に現れる大きな選択肢のまえで、バッサバッサと決めていくことで、ジェットコースターのような急上昇急降下するストーリーが展開されていく。
人生だってまったく一緒です。
そして「ベストの選択をするのではなく、選んだ道をベストにすること」というありきたりな言葉を信じて突き進んでいくことが圧倒的な善だとされている。
これは間違いない”真実”だと思います。揺るがない真実だからこそ、僕はこの真実に全力で抗いたい。
ゆえに僕は、会社を大きくしていくことも諦めました。
なぜなら、そうやって社員や取引先に対し、常に「決断」を迫り続けることが本当に正しいことだとは思えなかったからです。
出会う人々の中にある「葛藤」、そちらのほうが僕にはものすごく大事に思えました。
少なくともこれまでの「株式会社」というような仕組みの中で、僕が思い描く各人ひとりひとりの「葛藤」をしっかりと大切にする世界観を実現できるとは思えなかった。
参照:自分の中で葛藤がないひとは苦手だ。
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決断によって、人生を前にすすめていくことは、実はものすごく簡単です。それが世間のなかで生き残るうえでの「必勝法」でもあることも、重々承知しています。
自分が誰かの背中を押して、ある程度自立できるまで支援すれば、間違いなく相手から感謝はされる。でもそれは、スパルタコーチのもとで、ある程度の結果が出れば、必ず最後は感謝される構図と全く一緒です。
「あのときの先生がいなかったら、いまの私は存在しません」という旧来型の洗脳を、僕はもうしたくない。
常に決断を迫り続け、無理やり何か大切なものを捨てさせる人生は、やっぱり違うと思うから。
その「捨てた」ものから生まれる恨みや怨念だけではなく、その「捨てさせた」ことによって生まれる感謝や敬愛から、また次の憎しみや争いが生まれているのだから。
僕は、その負の連鎖を本気で断ち切りたい。
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この点、映画『もののけ姫』において、象徴的なシーンがふたつあります。
ひとつは、中盤、アシタカがモロに詰め寄られる以下のシーン。
モロ「おまえにサンを救えるか!」
アシタカ「分からぬ。だがともに生きることはできる」
そして、もうひとつはラストのシーン。
サン「アシタカは好きだ。でも、人間を許すことはできない」
アシタカ「それでもいい。サンは森で、私はタタラ場で暮らそう。ともに生きよう。会いにいくよ。ヤックルに乗って」
アシタカは、徹底してサンに「決断」を求めなかった。
共に生きようと自らの意志を告げただけです。その先にある未来さえ「保証」はしなかった。
サンはたぶん理解していたはずなのです。「人間か、動物か」自分が決断さえすれば、物語は前に進み、自分自身ももう葛藤しなくても済むと。
でも決して決断を迫ってこない、そのアシタカの言葉にどれだけ救われたか。
未来が保証されていることなんかよりも、よっぽど彼女にとっては安心感があったのではないでしょうか。
参照:他者を救うことは不可能だが、共に生きることはできる。
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この「共に生きよう」と言い合える関係性が、いま本当に求められていると思います。
そして、世の中に圧倒的に足りていない空間でもあると僕は思う。
そんな空間こそがタイトルにもある通り、本当の「安心安全」につながるのではないでしょうか。
自分の行動を執拗に褒め称えられて決断を迫ってくるわけでもなく、スパルタ的に否定されて決断を迫られるわけでもなく、ただ共に生きること。
未来がどうなるか誰にもわからない中で、ひとりひとりが真剣に自己の葛藤と向き合いながら自分で考えて、共に問い続けていくことができる空間。
僕は本気で、Wasei Salonをそんな場所にしていきたいと思っています。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となったら幸いです。
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