私たちは、何か自分とはまったく異なる価値観に出会うと、ついつい心の中でその価値観を「評価」したくなります。

未知の価値観に遭遇したときに、私が取るべき態度は二つであると無意識下で思い込んでいて、「肯定するか、否定するか」その二択だと信じきってしまっている。

それは「良い or 悪い」だけではなく「普通」だと感じ、凡庸な考え方だと認定してしまうことも、立派な「評価」のあらわれです。

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そしていま、多くのひとたちが「目の前の価値観が、肯定してもいい価値観なのか、否定するべき価値観なのか」について、いつもモヤモヤしてしまっている状態です。

なぜなら、社会一般的に「これが正しい」とみんなが信じ込んできた「単一的な評価軸」がなくなりつつあり、そもそもどうやって評価すればいいのか、そのプロセス自体がわからなくなってきてしまっているから。

そして、その評価し難い状況によって生まれきた葛藤、モヤモヤからなんとか抜け出したいがために、より一層「他者からの承認」を求めるようにもなってきている。

「多くの票(他者からの肯定)を集められたものこそが正しいに決まっている」と信じ込んでいるからです。

だからこそ、腕まくりをして「我こそが正しいのだ!」と、他者から評価される舞台に立つことを自ら望むのでしょう。

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でも、本来、単一的な「評価」なんてものは、この世の中には存在しない。

全員が似たようなものさしを、近代の義務教育やマスメディアによって無意識のうちに植え付けられ、そう思わされてきただけ、です。

だとすれば、自らが持ち合わせているものさしでは計測できないものが目の前に突然現れても、本来はその葛藤に引き裂かれる必要もないはずなのです。

大切なことは、自分とは全く異なる価値観に出会ったとしても、否定もせず、肯定もしないこと。積極的に「発見」と「保留」にとどめおけばいい。

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この点、哲学者のマルクスガブリエルが提唱する「意味の場」の概念は非常にわかりやすいです。

簡単に説明すると、何か一つの対象に対する評価(意味)は、ざっくりとわけても、3つ以上の意味が存在する。

それは、「私の視点、あなたの視点、そして第三者からの全く異なる視点」から立ちあらわれる意味です。

私たちは、どうしても「対象の意味は、確固たるひとつの価値観であるべきだ」という信念が拭いきれないでいる。

でも、繰り返しますが、それらはまったくの「幻想」に過ぎません。

さまざまな「意味の場(それぞれの視点)」から立ち現れる現象を、そのままそれぞれの「意味の場」の産物として自らの中で積極的に保留してみる、統一しようとはしない。

その胆力こそが、今まさに求められているような気がします。

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さて、なぜ突然こんなことを書いてきたのかといえば、今年の年末年始は、きっと地元に帰省するひとも多いはずだからです。

この2年間で、それぞれの価値観は本当に大きく変化してきました。

「私」や「あなた」がまさにそうであるように、地元の親や親戚家族、友人などもそれぞれに、それぞれの価値観の変化が大きかったはず。

2年前はキレイに意見が一致していたとしても、今は全く異なる価値観の中で生きているかもしれません。いや、その可能性の方が圧倒的に高いと僕は思います。

今回の帰省のタイミングで誰かと意見が対立した際にも、肯定や否定はしないこと。保留し、発見にとどめる。

ひとが流動的になれば、それだけ大きなハレーションや対立、モヤモヤも生まれてくるはずですが、それさえも最初から面白がる意気込みで臨んでみること。

今回のように、過去に誰も体験したことのない珍しい年末年始だからこそ、ぜひ心の片隅に留めておいて欲しい考え方です。

いつもこのブログを読んでくださっている方々にとっても、今日のお話が何かしらの形で役立つタイミングが訪れたら幸いです。