僕らは、なぜソレが大切だとわかりながらも、自分の心や直感に従うことができないのでしょうか。

そして、一体どうすれば心や直感に素直に従うことができるようになるのでしょうか。

今日はそんなことについて、私見をじっくりと述べてみたいと思います。

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まず、自分自身の心や直感に従うほうがいいと思いながらも、それができない理由から考えてみたいと思います。

この話は単純で、そこに「勇気」が足りていないからです。

この点、内田樹さんがご自身のブログのなかで、スティーブ・ジョブズの有名なスピーチを参照しながら、わかりやすく語ってくれているので、そちらを少し引用してみます。

ー引用開始ー

スティーブ・ジョブズがスタンフォード大学の卒業式に呼ばれて祝辞を述べたことがあります。そのときにとてもよいことを言っています。

 The most important is the courage to follow your heart and intuition, they somehow know what you truly want to become.

「いちばんたいせつなことは、あなたの心と直感に従う勇気をもつことです。あなたの心と直感は、あなたがほんとうはなにものになりたいのかをなぜか知っているからです。」

 僕もジョブズに100パーセント同意します。たいせつなのは「勇気」なんです。というのは「心と直感」に従って(「なんとなく」)選択すると、「どうしてそんなことをするの?」と訊かれたときに、答えられないからです。エビデンスをあげるとか、中期計画を掲げるとか、費用対効果について述べるとか、そういうことができない。「だって、なんとなくやりたいから」としか言いようがない。だから、「なんとなく」やりたいことを実行するためには「勇気」が要ります。

引用元: 


ー引用終了ー

いかがでしょう、心や直感に従うためには、まず「勇気」が重要であることは、なんとなく理解していただけたかと思います。

では、どうすればその勇気を手にいれることができるのでしょうか。

「その勇気が足りないから困っているんだ!」という声が聞こえてきそうです。

この点、僕の提案は「日本のカミが宿るところに直接足を運んでみること」です。

いきなり話が飛躍してしまったように感じると思うので、ここから順を追って説明していきますね。

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まず、そもそもなぜ僕らは都会的な価値観やロジックのほうばかりを信じて生きるようになってしまったのでしょう?

それは、日々の生活の中で、僕らは嫌というほどその力をまざまざと見せつけられているからですよね。

街中でも学校でも会社でもテレビでもSNSでも、ロジックを武器に戦う人々が、都会的な価値観というルールのなかで勝ち残り、資本の論理をこれでもか!と見せつけてくる。

だからこの世で生き残るためには、ロジックだけが大事なんだと誤解してしまう。

それは「格闘技が強ければ、肉体勝負では決して負けない」ぐらいの話でしかないのですが、僕らは常に資本主義というルールの格闘技番組を強制的に見せられているようなものなわけです。

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であれば、ロジックよりも、直感が優位の場所に実際に足を運んでみて、自分の身体や肌感覚でその直感優位の世界を体感してみればいい。

どうしても、現代を生きる僕らは、神話や昔話など古典の世界は、古い考え方(価値観)だと思って敬遠してしまいがち。

でも本来、古いも新しいもないのです。

「昔はロジックがなかったから、神や仏を信じていられたんだ」なんていう話は嘘ですよ。

少なくとも江戸時代後期まで、人々は狐つきを本気で信じていたわけですが、もし新旧の問題であれば、江戸後期にそんなこと本気で信じているわけがないじゃないですか。

「論理以上に力を持つものがあること」を体感的に知っていた。少なくとも、日々の体感から得られていた説得力に自分自身が納得していたから、何か霊的なものを信じていたわけです。

それはまるで、僕らがいまロジックや都会的な価値観を無条件に信じ切っていることと全く同じ。

しかし明治以降、急速に近代化に向かう中で、地面を全てコンクリートで覆ってしまい、自然からも遠ざかったために、その感覚も急速に衰えていっただけのことです。

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じゃあ、僕らはもうソレを感じることができないかと言えば、全くそんなことはありません。

先人たちは、後世を生きる僕らのような人間のために、「ここにカミが来るよ」としっかりと示してくれている。

この話は、松岡正剛さんのご著書『日本という方法』が非常にわかりやすいと思うので、少し引用してみましょう。

ー引用開始ー

私は、日本の 神祇 信仰は山頂・山中の 磐座 や山あいの 磐境 に霊力を感じたり、神体山の姿に威力を感じたりしたことから始まっていると思います。そうした何かを感じる特定の場所のことを、私たちの祖先は「 神奈備」とか「 産土」と呼んできました。なんとなく神々しい地、厳かな気分になるあたりという意味でしょう。

  こうした特定の場所の一角に 神籬 や 榊(境木) や 注連縄(標縄) を示し、そこにちょっとした「 社」をつくったのが、古代的な神社のスタートでした。これは、社という呼称がもとは「 屋代」(屋根のある代) であったことからも推測できるように、そこには「代=シロ」という考えかたがはたらいていたのです。

(中略)

  日本人は神祇や神奈備や産土を感じる特定の場所に、このシロを用意しました。そして神の来臨を待った。ということは、その場所に人格的な神が常住していると思ったわけではなく、そこにときどき神あるいは神威が訪れてくれるというふうに考えたということです。この神威を「 稜威」とも言いました。畏れを感じる 見えない力 のことです。 稜威 は「 斎」という言葉と通じます。

いずれにしても、神祇信仰がイザナギやアマテラスやコトシロヌシ(事代主神) といった人格神から始まったわけではないことはしっかり留意しておくべきことです。人格ではなく、面影だけ。それが日本の神の本質です。

ー引用終了ー

この「シロ」がある場所、神の面影がみて取れる空間に足を踏み入れた瞬間、「ああ、これだ」って日本人なら誰しもが直感的に理解できるはず。

つまり、日本のカミに会いに行くというのは、誰かが作った神を崇め奉るためではなく、自分自身の中にもカミが存在することを知るために、その場に足を運んでみるのです。

そうすることで少なくとも、ロジックや都会的な価値観だけが、この世界の成り立ちではないということを身体的に理解できるはずです。

そして、この感覚を自分の身体で感じとったことがあることがそのまま「自分の心と直感に従う勇気」につながる。

少なくとも、僕はそう思っています。

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今日の話は逆から辿れば、都会的な価値観やロジックを肌感覚で理解したければ、東京の赤坂や六本木ヒルズなど、港区に直接足を運んでみればいい。

そうすれば、肌感覚で資本の論理を理解することができる。きっとこのことに異論を唱えるひとはいないはず。

それと全く一緒のことです。どちらが優れているとかの話ではありません。

百聞は一見にしかず、です。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても今日のお話が何かしらの参考となったら幸いです。