改めて最近、「自分らしさ」という言葉は、呪いの言葉だなあと思うようになりました。

「自分らしさ」とは何かを考え込むこと、それが世間一般的な「善」となってしまい、

その自分らしさに執着することが「私らしく生きる」ことだと勘違いしてしまっているひとが、ここ数年で一気に増えたような気がします。

でも本来、「自分らしさ」をなぞったり再現しようとしたりした瞬間に、そこから遠ざかったり意図的に壊したりしないといけないものが「自分らしさ」のはずなのです。

6年ほど前に書いたこの記事のころから、それは常に考え続けていること。


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なぜなら、本来「自分らしさ」とは徹頭徹尾、他者が判断を下すものだからです。

そんな「他者目線」に振り回されてはいけません。

昨日も書いたように、本来従うべきは、私の「直感」であり、その直感に従うための勇気を持つこと。


その直感に従った結果として、昨日と全く違う自分になってしまっても一向に構わないはずなのです。

もちろん、興味を持つことや言っていることが180度変わってしまっても構わない。

それこそが本来の「人間の成長」であるはずなのですから。

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つまり、本当は逆なんです。

みんな「自分らしさ」を追求すればするほど「私らしく健やかに生きられる」と思っているけれど、それこそが大きな勘違い。

「自分らしさ」に固執すればするほど、それは他者が勝手につくりあげた「自分像」をなぞることになり、いつまでも他者目線、つまり世間の評価を追い続けることになる。

他者が願う「こうあって欲しいという私」に合わせに行っているから、どんどん「本来の私」からは遠ざかっていく。

そんなことをしていたら、鬱になるのも当然です。

「過去に何かしらの表現(言動)として、置き去りにしてきた私」を評価され、それを私だと思うことがいかに滑稽なことであるか。

それは、自分の対外に排泄されたものを指差しながら、「これが私です、私はこれに合わせます」と言っているようなもの。

それって、ものすごく奇妙なことだとは思いませんか。

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現代を生きる人々、特に若いひとたちは、自分でも気づかないうちに(無意識のうちに)、他者視点(世間が求める私)が正解になってしまっているため、それこそが「自分らしさ」なのだと勘違いしてしまうのだろうなあと思います。

似ているようで全く異なる。

むしろ真逆であると言っても過言ではない。

言い換えると「なりたい自分」が「他者から評価される私」になってしまっている。

それは直感に従った結果であり、本来追い求めるべき姿ではないはずです。

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「自分らしさ」という言葉に振り回されて、苦しめられるのはもうやめにしましょう。

そもそも本来、「自分」なんてものははじめから存在せず、それは幻想(言葉や概念)でしかないのですから。

いつもこのブログを読んでくださっている方々にとっても、今日の話が何かしらの参考となったら幸いです。

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