人には必ず、望んではいないけれど、結果的に選び取ってしまっている(選びたい)ことってあると思います。

例えば、

「怒りたくないけれど、怒ってしまった」

「好きではないけど、自分が得意なことだから取り組んでしまっている」などなど、

本来、自分にとって望んでいることではないけれど、それを選ぼうとしている意思決定に悩む(後悔する)場面って、生きていれば必ず訪れるはずです。

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このときに、多くのひとが掲げる命題として、

「人は怒るべきか?」

「人は好きではないけれど、得意ではないことに取り組むべきか?」

といった命題を掲げて、その答えに「普遍性」や「絶対的な真理」を求めてしまいがちです。

その理由はきっと、苦しみたくないから。

何か絶対的な答えがあるはずだと望み、偉人の名言や名著から徹底的に答えを探ろうとして「100対0」の状況を導き出し、自分で考えることを放棄したくなってしまう。

その「絶対的な戒律」にしたがって生きるほうが圧倒的に楽だと感じるからなのでしょう。


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でも、こんなふうに明らかに答えがない問題は、政治や宗教などの問題にも近くて、そんな命題を掲げても仕方がない。

「キリスト教が正しいか、仏教が正しいか」という宗教論争を行うようなもので、本当の答えは一生でないのですから。

だからこそ、その普遍性や絶対的な真理を求めるのではなく、

自分がそれに悩んでいること、それ自体を客観的に観察したほうがいいと思うのです。

どちらに転んだとしても、その決断を選んだ自身の背後にある、無意識下にある「価値観」や「固定観念」に気づくためのきっかけとして活用してみる。

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このような答えが絶対に出ない問いは、「悟った!」と思ってもまた必ず天秤のようにゆらゆら揺れ続けるもの。

そしてまた、意図しない方向へと比重が偏っているときに考え始めてしまう。

それはきっと外界からの何かしらの刺激によるものだと思います。

たとえば「怒るべきか否か」であれば、

目の前の状況が叱責することによって何も状況が改善されない姿をまざまざと見せつけられたとか、自分が理不尽に怒られたとか、そんな状況を垣間見れば怒るべきではないと思うはずだし、

一方、怒ったほうがいいと思っている場合は、社会への理不尽があまりに許せないとか、目の前の人間のあまりに横暴な態度に我慢ならないとか、そのような現場を目にしているはず。

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この時に「人は怒るべきか否か」という命題を取りあげて苦しむのではなく、

「なるほど、私はこういうことに納得がいかなくて、本当は怒りたくないと思っているけれど、怒ったほうがいいと今感じているのだな」と無意識下にある価値観や、自己の観念に気づくことに活用していく。

もちろん逆も然り。

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つまり、

「天秤はどちらに傾くべきなのか」

ではなく、

「天秤が今、傾いている原因は何なのか」

その理由を客観的に観測し続けて、外的要因に気づき続けることがとても重要だと思うのです。

それこそが、自己を発見していくことにも繋がると思うから。

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これをひとりで行うのは非常に困難で、他者を鏡のように見立てて共に議論して初めて気がつくことでもあると思います。

このWasei Salonも、そのための場所として機能していくと本当に嬉しいです。いまの世の中において圧倒的に足りていない空間だと思うから。

昨日収録したコミュニティラジオでも、似たようなお話をしたのでぜひ合わせて聴いてみてもらえると嬉しいです。

いつもこのブログを読んでくださっている方々にも今日のお話が何かしらの参考となったら幸いです。

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