今朝、こんなツイートをしてみました。

ライフスタンス重視の人たち(僕もそのひとり)からすると、「その『センス』の基準自体が、いま大きく移り変わってきているんだよ!」ということなのだと思います。

だけれども、客観的な「美」を追い求めてきた現代社会において統一感なくガチャガチャしてしまうのは、痛恨の極みのように思います。

「このハードルを超えるための方法ってなんだろう?」というのが、最近の問いなのです。

今日はそんなお話を、書きながら少し考えてみようかなと。

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この点、「わかるやつだけ、わかればいい。むしろこのガチャガチャの中に一本の軸を見いだせることがわかっている証拠」みたいな感じが、どんな時代のオタクであっても、必ず主張してくる言い分です。

でも、それだと内輪ネタを超えていかないんですよね。外から見たときに単純に美しくないから。

あと、「わかっているやつだけ、わかればいい」というのは、身体感覚としても単純に気持ちよくないことが多い。

当然ですよね、頭の中に存在する「偏見」で、ものを見ているだけだとも言えるわけですから。その偏見を持たない人間にとっては、ただのガラクタの寄せ集めにしか見えない。

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もちろん、思想や価値観など「頭」で考えることも大切なんだけれど、同時に私たちが人間という「動物」である以上、身体感覚として純粋に気持ちがいいかどうかは、非常に重要な要素なんだと思います。

「頭よりも先に、身体的に突き抜ける気持ちよさを欲している」と言えば、わかりやすいかもしれません。

それは、ものに触れた瞬間に、すぐ自己の内部に立ちあらわれてくる「好きか、嫌いか」が一瞬でわかる感覚のような状況と同じこと。

哲学者・西田幾多郎はそれを「色を見、音を聴く刹那」、そんな主(あるじ)も客(きゃく)も持つ以前の状態を重要視し、主客未分の状態で得るものを「純粋経験」と呼んだわけです。

圧倒的な身体性の共鳴がまず先に存在して、そこに、あとからいろいろな理由が「頭」で論理が付け加えられていき、理論武装されて「私はこれが好き」と他者に説明できるようにもなってくる。

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なんだか、小難しい話をしているように感じられるかもしれないけれど、たぶん皆さんも近年において必ず無意識のうちに似たようなことは行っていて。

例えば、テキストよりも「音声」に情報収集の場が移っているのも、それが理由のひとつだと思います。

Voicyの中では、僕が話している言葉や内容以上に、僕の声そのものに耳を澄ましてくれていると思います。

僕自身も、いちリスナーとしてそうしています。

これもある意味では、頭で考えることよりも、急激な身体性への回帰のひとつの事例と言えそうです。

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そして、このような傾向は、何もマーケティングや学問的な領域のみで行われているような狭い話ではなくて、近年のマス向けの作品においても、全く同様の事が起きていると僕は捉えていて。

それは以下のツイートでも書いた通り。
どの作品も、ストーリー以前に、絵画のように美しい映像かどうかが、言及されていたのが印象的でした。

そして、その映像美を通じて、観ているひとりひとりの中に存在している一番純度の高い「純粋経験」、つまり初恋の記憶のほうを想起させられるかどうかが、きっと問われていたのだと思います。

この点、一般的な連ドラよりも、映画やNetflixオリジナルが強いのは、その身体性の快楽の部分に訴えかけるポイントにお金をかけられるから。

新海誠監督の『すずめの戸締り』も、映画オタクやアニメオタクたちからストーリー面でいろいろな批判が飛び交っていましたが、そんなことは実はあんまり関係ない。

それよりも、映像美による身体的な圧倒的な気持ちよさが先にある。さらに、あの世とこの世、夢と現実、のような「あわい」の世界を描くことで、さらにもっともっと気持ちよくなる。

夢見心地という言葉があるように、あわいや境界の世界の表現というのは、ある種の催眠状態に人間を追い込んで、偏見を引き剥がし、直に「純粋経験」に訴えかけて来るから。

映画『THE FIRST SLAM DUNK』もこれだけ広く流行ったのは、まちがいなくそんな「あわい」の世界が山王戦の試合と同時並行的に描かれていたからだと思います。

逆に言えば、ひとびとの頭によって生み出される価値観や思想が、現代においてはバラバラになってしまったからこそ、マスの中でヒットする条件というのは、この人間の動物的な「純粋経験」に訴えかけられたものだけになってきているということでもあるんじゃないのかなと。

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これはきっと、近年の社会の方向性として、コロナ禍でみんなが何かしらの命の危険を感じ、更に何が一体向かうべき社会の方向性として正解なのかがドンドンよくわからなくなってきているから、自身の身体の声に無意識に耳を傾けている感じを強く受ける。

これは、動物としての生存本能のようなものでもあるんでしょうね。

内容も大事だけれども、やっぱりそれを生理的に受け付けてもらえないと、そこからひとりひとりの物語(ナラティブ)が始まっていかないから。

もちろん、近年において大ブームの「推し活」なんかもそう。

双方向性のあるコミュニケーションも含めて、ネット上ですべてを完結できる時代に、現場に足を運んでファンのひとたちが一生懸命何をしているかといえば、無意識のうちに動物的直感を頼りにして判断しているように、僕には見える。

なぜなら、目という器官が人間にとって一番新しい器官だから。つまり一番騙されやすいのです。

人間の目に錯覚が起きやすいのも、それが証拠。そしてその錯覚を生み出しているのは、脳そのもの。

それよりも、耳を澄ます。身体が感じる「快・不快」を無意識のうちに直感的に感じとろうとしている。

それを、内田樹さん風に言うと「召命に耳を澄ます」ということですし、鈴木大拙風にいうと「日本的霊性」ということになる。

そして、養老孟司さん風に言うと、平安時代から鎌倉時代への変化と同じようなことが今起きているんだという話なんかにも関連して、この変化は本当に興味深いなと感じます。

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で、さらに話は飛躍してしまうのですが、最近ずっと言及している「民藝」の素晴らしさというのは、ここを完全に両立してしまっているところ、なんですよね。

民藝運動は、はっきりとした「思想」運動なのに、身体的な心地よさがしっかりとそこに存在し、さらに統一されているということ。

作り手や用途がまったく異なる「道具」が並んだときにも、ちゃんと美しいのです。

それらは僕らにそういう偏見が植え付けられているのか、物自体がそうなのか。遅れてこの時代にやってきた僕らには、それは絶対にわからない。

ただ、柳宗悦は民藝運動の中で「直(じか)に観る」ということを主張し続けていた。

つまり直観の重要性です。

冒頭でもお話したように「人間が物を直に観る」なんて本来はそもそも不可能。

なにかしらの「偏見」を有しているから、僕らはものを観ることができているとは紛れもない事実なんです。それでもなお「直に観る」ことの重要性を柳が説き続けたことに、ものすごく大きなヒントや秘密がありそう。

そして、そのために「宗教」の解釈を用いていたこと。

つまり「頭」と「身体」を架橋することができる唯一の力を持っているのが、「宗教性」ということなんだろうなあと。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても今日のお話が何かしらの参考となったら幸いです。