昨日、Wasei Salonの体験会イベントとして、『学びのきほん はじめての利他学』という本の読書会が開催されました。

https://wasei.salon/events/15e796aa7532

今回は体験会イベントで、既存のサロンメンバーの方々だけではなく、本書に興味がある外部のメンバーさんも半数以上参加してくださって、とても活気のある、でも穏やかで落ち着いた雰囲気もある非常に良いイベントとなりました。

サロンメンバーさん向けには、近日中にアーカイブもアップされると思うので、ぜひラジオ代わりに楽しんでみてもらえると嬉しいです。

今日は、この読書会を通して、僕がハッと気がついたことについて少しだけ書き残しておこうかなと。

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どうしても僕らは、「利他」というと「ギバー」と「テイカー」の対立のようなものを頭の中で思い浮かべてしまいがちです。

「どうすれば、ひとから利他的な人間だと思われるのか」と、少しでも何か明快な答えを追い求めてさまよってしまいがちですよね。

でも本書を読むと、逆に「利他とは何か」が全く掴めなくなります。むしろ、そんな打算的な読者の心が完全に見透かされてしまっているような印象を強く受けるのです。

そもそも、利他という行為は明確には存在していなくて「利己」と「利他」というような二者択一や二項対立のようなものではないのだと、ものすごくハッとさせられます。

を本書を読めば読むほど「利他とは何か」がスッキリとしなくなるし、本書が何かすぐに行動できるような規範を与えてくれるわけでもない。

強いて言えば「利他とは何か」とそんなふうにモヤモヤと抱えながら、自分の中で考え続けて、その中でひとつひとつ自分で納得のいく行動をしていくことが真の「利他」なんだと、著者の若松英輔さんに優しく、でも力強く教えてもらったような感じです。

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で、具体的に僕が読書会に参加してハッとしたことは、「そもそも利他とは、何かソリューションやベネフィット他者に与えることではない」ということです。

みなさんとお話しながら、僕自身、利他とは他者に何か「利益」を与えることだとずっと勘違いしてきてしまったんだなあとガツンと頭を殴られたような気持ちになりました。

僕は、自分自身で9年前に会社を立ち上げて、正社員になってくれたメンバーや、このようなオンラインサロンのような場所を通じて出会ってきたさまざまな方々に、何か一生懸命に「利益」となること(具体的にはお金や時間など価値のあるもの)を提供し、相手に喜んでもらうことが「利他」なのだと信じて疑わなかった。

でも、本当の目的は「相手を喜ばせること」なんですよね。

その「喜ぶ=プレゼント(利益)」という誤った認識や図式が、無意識のうちに自分の中に存在していたと気付かされたわけです。

でも、喜ぶとはもっともっと異なる本質的なものであるはず。

そして、それは各人の自分の中の経験に大きなヒントや答えはあるはずで、それこそ十人十色なんだと思います。

この本を読んでいると、そもそも「利他」の前提となる「『利』とは何か」を自ら考えることが求められているんだなと強く感じました。

逆に言えば、そのようなことをド真剣に考えてきた歴史上の偉人たちの話だけがたくさん紹介されていて、そのひとつひとつが微妙に異なり一見すると矛盾するようにも感じられる。

でも、それらは決して矛盾はしないのです。

だからこそまずは、他者に与えたいと思う「喜び=利」それが一体何なのかを、ちゃんと自分自身の頭で考えないといけないんだと強く実感しました。

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で、ここからがさらにメタ的な話になってしまい、非常にわかりにくくなってしまうかもしれず申し訳ないのですが、「利とは何か」を相手自身の力で本質的に発見してもらうこと、その発見の過程に私がしっかりと寄り添うことが「利他」なんじゃないかと。

そんなことに気付かさせてくれたのは、以前もブログ内でご紹介したことがある平安時代の僧侶・最澄のお話です。

以下で少し本書から引用してみたいと思います。

最澄は、自らへの恩恵を優先しません。仮に自分の修行が進み、ある悟りを得ることができたとしても、ほかに苦しむ「いのち」が存在するなら、自分もまた、苦しみの世に留まりたいというのです。最澄にとって、自分の幸せは、すべての「いのち」とともにある幸せにほかならないのです。     

もちろん、なかなかここまでの境地にたどり着くことはできません。しかし、ここで注目すべきことがあります。最澄にとって重要なのは、自分が誰かに良いことをすることではありません。むしろ、ともに苦しむこと、「 共 苦 する」ことが、もっとも高貴な利他の行いであると考えているのです。


個人的に一番感動させられたのは、「自分が誰かに良いことをすることではありません。むしろ、ともに苦しむこと、『共苦する』ことが、もっとも高貴な利他の行いである」という部分です。

でも、こういう話をするとすぐに、それはただ単純に、悲しみを2倍にしているだけで意味がない。それどころか害悪でもあるじゃないか!という批判が飛んでくるかと思います。

僕も若いころは、強くそう思っていました。

でも、ここで最澄が言いたいことは、そうやって同化してしまえという話ではありません。もちろん苦しみを2倍に増幅させるわけでもない。

もっともっと本質的に、目の前の他者と共鳴することなんだと思います。

言い換えると、問いの答えがわからなくても、共にいるということ。

隣にただただ座っているんだけなんだけど、間違いなくいまわたしたちは共鳴していると感じられているような体験こそが、「利他」なのだと思うんです。

そのときに「共鳴してもらえた」という根源的な喜びが相手の中には立ちあらわれてくる。

もちろん同じ喜びを、私自身も感じ取っている。このとき、私と相手の中に存在した境界線はなくなり「自他不二」の感覚を両者がしっかりと得られるのだと思います。

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言い換えると、先日ブログに書いた「サイコロを振ってみたいという感覚に敬意を表したい」という感覚の話も、ここに非常に近い感覚です。

僕らはどうしても、サイコロを振った結果として、本人が求めている出目を、結果として与えてあげることが「利他」だと単純に考え、そうすればきっと本人にも喜んでもらえると思ってしまいがち。

でも実際は、サイコロを振ろうとしたときに、その後に何が起ころうとも共にいる仲間であることのほうが、本当の喜びにはつながると思うのです。

参照:「サイコロを振ってみたい」という感覚に敬意を表したい。

少なくとも僕は、そのほうがより本質的で根源的な喜びを相手に感じてもらえると思っていますし、自分自身が過去にそうやって利他的であろうとしてくれていた人たちから強く励まして着てもらったような気もしています。

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この点、僕の若いころのコンプレックスというのは、目の前の人に対して何もソリューションやベネフィットを提供できない弱い人間であるということでした。

具体的には、高額なお金や高価な商品を直接手渡してあげることができなければ、それを得るためのノウハウ、何かわかりやすく儲かる方法やSNSのフォロワーを増やす方法を伝授してあげられるわけでもない。

でも、本質的な「利他」とは、それとは全く別次元に存在していたんだと初めて気が付かされたのです。

実際、これはWasei Salonを運営しながら、メンバーのみなさんに感謝される部分から気付かされた点も多数存在しています。

わかりやすいソリューションよりも、自分で考える力、その問いやモヤモヤを自分と同じように一緒に抱えている人たちが、私以外にも存在していると、それを実感できることが、本当に強い励みになるのだなあと。

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あと、やっぱりそもそも「利己」と「利他」というものがはっきりと分けられることではないんだということが、本当に非常に重要な点だと改めて感じています。

もし「利他」のようなものがあるとすれば、利他とは何かを常に考えつづけるその過程の中だけで、フワッと瞬間的に立ちあらわれてくるものなのだと思います。

何か明確な答えや正解があって、その通りに実行すれば万事OKということではない。そんなものは利他でもなんでもなくて、ただの偽善です。

僕は「やらない偽善よりも、やる偽善」という言葉があまり好きではない。

参照:偽善を「愛」だと誤解しない。

確かにそれによって助かるひとがいることは事実です。だからやったほうがいいと思うけれど、その二項対立は正直、頭が悪いなと思ってしまう。

そうすると、ものすごく近視眼的な発想に陥りがち。そして、どちらかではなく、どちらも大事だと言うのが実際のところでしょう。

むしろ、その偽善によって立ちあらわれてくる「俺はもう与えたから、関係ない」というおごりが一番最悪な無関心にもつながってしまう。

そう割り切ったひとにとっては、偽善を施す相手はどんな相手であってもいいし、空中からばらまく「お金配り」のような間違った「利他」を発動させてもしまう。

そんな「やる偽善」だけの社会だと、長期的に見たときにはやっぱり単に悪影響しかないのだと思います。

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そうではなく、最澄の語るとおり、目の前にいる相手としっかりと「共苦すること」が大事。

そうすると、自然と万人に対しての利他性も持ち得ることは可能にもなってくるんじゃないか。

なぜなら、相手の苦しみや悲しみには常に誰に対しても寄り添える事柄であると実感できて、行動が変化するわけですから。

僕らが利他性を出し惜しみしてしまうのは、やっぱり嫌いな相手や苦手な相手がいるからですよね。

どんなに嫌なやつでも愛情や社会的に認められている利益(お金)を与えることは憚られる。

でも「共苦する」、そうやって相手の苦しみに寄り添うことは、どんな相手であっても私達は常に世界に対して開かれた態度で接することはできます。

それが最終的には、他者に「敬意を払う」という話にもつながっていくのでしょうね。

参照:次世代に遺していきたいと思える理想的な「公共性」 

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となったら幸いです。