先日、このサロン内で「当たり障りないテーマに逃げずに、マジメに差別について話し合おう」と題して、対話形式のイベントを開催しました。

普段、なかなか外では語ることができないテーマゆえに、とても考えさせられる素晴らしいイベントとなりました。

参加したみなさんが口を揃えて「とても疲れたけど、参加してよかった!」と言っていただけたことは、本当に嬉しい限りです。

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この一連の対話を通して、僕が思い出した言葉がひとつあります。

それが、僧侶・釈徹宗さんが「100分de名著」の講師として出演されていたときに仰っていた以下の言葉。

「宗教は強烈な差別を含むから、つまみ食いしてはいけない。教義が歯止めになっている。」

この時は親鸞の回だったのですが、親鸞の教えなんかはまさに、つまみ食いしてはいけない教えのひとつだと思います。

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しかし、現代は、つまみ食い文化こそが主流になっていると言っても過言ではないはずです。

宗教に限らず、ありとあらゆる思想信条において、自分に都合のいい部分だけを切り取って解釈してしまう。

マスメディアもインフルエンサーも、理解が面倒で複雑な部分はすべてカットして、読者や視聴者にとって耳障りのよい部分だけを届けて、耳目を集めようとしてしまうことがその大きな原因のひとつだと思います。

しかし、これは作り手、受け手どちらか一方が悪いわけでもなく、完全に相互補完関係にある。

誤解することなど誰も本質的には望んでいないはずにもかかわらず、この両者の需要と供給の関係がガッチリと噛み合ってしまっているため、つまみ食いする文化だけがドンドン加速してしまう…。

結果的に、ポストトゥルースのようなものもドンドンと生まれてくるわけです。

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この点、宗教における「教義」って、さまざまな意味合いが含まれていると思うのですが、

ひとつは「先人たちのさまざまな失敗の上に積み重ねられた叡智」のことを指すのだと思います。

いま私たちに求められていることは、そうやって先人たちが失敗から学んでつくりあげてくれた歯止め部分もしっかりと理解しつつ、少なくとも先人たちと同じ轍を踏まないことが重要なのだと思います。

複雑な部分や解釈が面倒な部分も、しっかりと理解しようと試みて、できる限りその真意をちゃんと把握するように努める。

都合のいい部分だけを引っ張ってきて、さらに差別や格差を助長しないこと。

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ひとりでは困難な作業であっても、現代を共に生きる人々同士で学んだことをシェアし合いながら、対話を繰り返すことで、その胆力は着実に磨かれていく。

そして、そこで得られた学びや仮説を小さくともちゃんと実践してみる。

できることなら、現代を生きる人間同士で未来に向けて「次はどんな石を積み重ねればいいのか」を真剣に語り合う。

それが今ものすごく重要なことなのだと僕は思います。

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先日のイベントに参加してくださったメンバーのみなさんには本当に感謝してもしきれません。

商業イベントでは決して得られない貴重な体験をすることができました。

本当にどうもありがとうございました。

これからもこのサロン内では、このような対話イベントを少しずつでも定期的に開催していけたらいいなと思います。

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