最近は、ブログに書きたいことがたくさんあってちょっと困っています。
1日に本当の意味で書ける内容は限られているから、その日に一体何を書くか、その選択がむずかしいなあと思わされます。
僕の興味関心だけでなく、Wasei Salonのメンバーに今本当に届けたいこと、そしてVoicyを日々聞いてくださっている方々の興味関心軸に対しても、しっかりと考慮したいから。
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で、そんな葛藤があるのならば、今なら当然「AIに書かせればいいじゃないか」となるのかもしれません。
でも、そうなると、それは僕が書いているんじゃなくて、AIが書いているわけだから、「書きたいことを書いた」にはならないんですよね。
「じゃあ、書ききれないなら、音声で喋って文字起こしさせて、それを編集すればいいじゃないか」という考えもあると思います。
ただ、その指摘というのは、話すことと書くことが全く別の行為であることを理解していないようにも感じます。
今日はこのあたりの意味合いについて、丁寧に説明してみたいなあと思っています。
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この点、僕がよく思うのは、ブログを書くという行為は「目的地が決まった旅」のようなものだなあと、いつも思います。
意外とこのようなことを言っているひとは見たことがないですが、旅と、ブログを書く行為自体は、本当にとてもよく似ている。
両方とも、実際にそれを始めてみないと、その本質はわからないということです。
たとえば、僕らはどこに旅をしようか悩んでいる時間帯って結構長かったりしますよね。国内か海外か、海外ならアジアかアメリカか、ヨーロッパか。
必要な資金はどれぐらい?休みの日程はどれぐらい取る?誰と行く?どこを目的地にする?そんな様々な要素を勘案している時間って、本当にとても長い。
でも、それでも悩んだり考えたりして問い続けているなかで、一つ一つ決断をしていきながら「行き先が決まって、時間も確保できた、よしこれで目的地へ行けるぞ!」となる瞬間ってあると思います。
これがまさに、ブログに書きたい内容が決まった状態なんです。
でも、当然ですがこの段階においては、旅自体はまだ始まっていないですよね。むしろ、ここからが旅の本番になってくると思います。
ブログを書くという行為も、これと全く一緒で、書きたいことが決まったというのは、「旅の目的地が決まった!」という状態であって、実際にはまだ筆は一切走らせていない状態です。
自分が何をそこに書いてしまうのかもわからない。でも”書ききれる”ことだけは直感的にわかる。
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このときに「もう目的地は決まったんだから、じゃああとはその目的地にAIに旅に行ってきてもらえばいいじゃないか!」と提案する人がいたら、ちょっとそれは違うのではないかと思うはずなんです。
それと一緒なんですよね。ブログを書くという行為も。
旅は目的地まで到達することが旅であり、そこまでを書き終える過程の中新たな発見や気づきがある。
もちろん、旅の最中に、最初の目的地とは全然異なる場所が目的地に変更されることもある。というか、往々にして旅というのはそのような現地における臨機応変な対応にこそ、醍醐味があったりもするわけです。
そして旅が終わったあとには、最初にはまったく予想もしていなかった経験を得て家路に帰還する。
ここを逃すしてしまうのは本当にもったいないというか、本末転倒だなあと思っています。
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で、どちらかと言うと、ひとりで喋るという行為は、過去の旅の思い出話をすることになるか、そのプレゼン的な行為を行っているような場合が多くなる気がしています。
もしくは、未来に向けてという視点で言えば、旅のしおりをつくっているような状態に近い。
過去や未来の旅の再解釈はありえても、そこから何かが生まれてくるということではない。どうしても、焼き直しのような状態になってしまう。
もし、それが対話によるおしゃべりであればまた別だと思うけれど、ひとりで喋って、それが新しい旅のような効果効能をもたらすかといえば、決してそうではないよなあと僕は思っています。
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でも、これはとても奇妙な話に聞こえてしまうかもしれないですが、あと数年から十数年もすれば、自分のAIやアバターに世界中を実際に旅をさせて、私は旅に行ってきたと語るひとが出てきてもまったくおかしくないだろうなあとも思っています。
それは一体何の意味があるのか、と思われるかもしれないですが、それは行ってきたという「結果」やその行為の完了という「記号」自体が他者を引き寄せてしまうから。
そして、それがそのままお金になる世の中でもある。
それぐらい客観的な「数字」って本当にわかりやすいんですよね。
僕らの世代は20代前半の頃に、SNSを活用して世界一周することが流行りに流行っていた時代だったんですが、地球何周した、みたいな話のひとたちのよくよく話を聞くと、飛行機で移動して名所を巡るだけということも多かったです。
そのような旅の仕方にも価値があるとは思いますが、旅をしながら、自分なりの発見や問いを続けることのほうがもっと重要だと感じます。
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AIが出てきたことにより、これからはより一層、客観的な「数字」を用いた評価が増える気がします。
そう考えると、鉄道と船と徒歩で旅していた時代から、飛行機が出てきた時代にも似ているのかもしれないですね。確かに移動した距離や目的地は同じでも、その過程のほうがきっと大きく異なってくる。
あと、これは余談ですが、最近よく考えている「ノイズ論」みたいなものも、この話とつながると思っています。
「役に立つノイズを増やそう」みたいな話って語彙矛盾というか、よくよく考えると変な話だよなあと思う。
役に立たないからそれはノイズであり、不快なのだからノイズなのであって、それが役に立ったり、快かったり、意味があったりしたら、それはもはやノイズではなくなってしまう。
時差や訂正可能性みたいな話に帰着するんだろうなあと思いつつ、「ノイズ必要論」ってちゃんと考え始めると結構むずかしいよなあと思うのです。
観念としてのブリコラージュのような状態を意図的に目指そうとすると現代においてはすぐにゴミ屋敷が完成してしまうことにも、なんだかとてもよく似ていて。
だからそうじゃなくて、ノイズとは呼ばずに、想定もしていなかった「旅先の景色」ぐらいに捉えておくほうが良いと思います。逆に言えば、何でもかんでも答えだけを追い求める要約文化は、旅先の目的地しか求めていない態度。
でも、手垢のついたありきたりな話ですが、旅は家を出た瞬間から始まっている。その目的地につくまでと、家に帰ってくる時間までが、旅の本質だということは比較的誰でも理解できるかと思います。
だとすれば、ノイズのほうこそが、ある種の本質だという話はよくよく理解できるはず。
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ただ、最後に、ここまでの話を全部ひっくり返すようなことを書いてしまいますが、そのような体験を経由することによって、生まれ変わった自分、精神が開放された自分が待っている!とは決して思わないほうが良い。
旅も、文章も書くことも、精神的な開放には一切寄与しないし、「自分探し」という名目で旅をしたあとには、生まれ変わった自分なんていない。そこには当然わかりやすい「救い」なんかもない。
これは、村上春樹さんの短編集『回転木馬のデッド・ヒート』のまえがき部分を読みながら思ったことです。
以下で本書から引用してみたいと思います。
自己表現が精神の解放に寄与するという考えは迷信であり、好意的に言うとしても神話である。少なくとも文章による自己表現は誰の精神をも解放しない。もしそのような目的のために自己表現を志している方がおられるとしたら、それは止めた方がいい。自己表現は精神を細分化するだけであり、それはどこにも到達しない。もし何かに到達したような気分になったとすれば、それは錯覚である。人は書かずにいられないから書くのだ。書くこと自体には効用もないし、それに付随する救いもない。
これは本当にそう思います。
「なぜ、山に登るのか。そこに、山があるからだ」みたいな話ではあるけれども、それとよく似ている。それでも書かずにはいられないから書く、旅をせずにはいられないから旅をする。
最後は、ひどく哲学的だと思われてしまうかもしれないけれど、ものすごく実践的な具体的な話をしていると思ってもらえるひともきっと少しはいるはず。そう強く願っています。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとって何かしらの参考となっていたら幸いです。