最近、よく思うのは、言語化力とか解像度を高めるとか、そうやって何かを突き詰めていくという行為は、案外幼稚な行為なんじゃないか、と。

もちろん、いまの世の中で語られていることとは、真逆のことを言っている自覚はあります。

今は、なんでも「言語化が大事だ、解像度を上げろ」と言われる時代ですから。

自分の感情や違和感、目の前の問題の構造を、できるだけ正確に言葉にすることができるひとこそが大人だと語られがち。

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たしかに、それも大事なことだとは思うのです。言葉にできなかった痛みは、ずっとなかったことにされてしまうから。

昨日のブログの内容にもつながりますが「なんとなくつらい」としか言えなかったものに「これは加害だった」「これは差別だった」と名前がついた瞬間に、ようやく救われる人もいる。

だから、言語化なんていらない、と言いたいわけではまったくありません。

でも、そのうえでやっぱり最近、強く思うんですよね。

言語化や解像度を上げるという行為は、思っているよりも、ずっと危うく幼い行為なんじゃないか、と。

なぜなら、言語化するというのは、つまるところ世界に境界線を引くことだからです。

「これは私の痛み、これはあなたの責任」とそうやって曖昧だったものに、ひとつずつ明確に輪郭を与えていく行為。

「わかる」というのは、要するに「分ける」ということであって、それは境界線をはっきりさせていくことでもあるわけです。

でも人間って、「わかった」と思った瞬間に、けっこう幼くなることがある気がするんですよね。

今日は、そのあたりのかなり特殊な意見を自分なりに書いてみたいと思います。

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昨日のブログで、日本社会は「あなた」を受け入れているわけではない、という話を書きました。


日本社会は、人種や国籍そのものを見ているというよりも、その人がこの場に適応してくれるかどうかを見ている。

だから受け入れているのは「あなた自身」ではなく、「この場にふさわしく振る舞ってくれるあなた」のほうなのではないか、と。

その話を書いたあとで、ディズニーシーでの外国人観光客をめぐる一件を眺めていて「ああ、これもまさに昨日の話と地続きだな」と思ったんです。

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日本人は、あのような不公平感に、ほんとうに敏感ですよね。

自分たちはルールを守っていて、ちゃんと我慢をしている。秩序を乱さないように日々気をつけているのに、その秩序に適応していない人が、同じ場所で同じように扱われているようになると、その瞬間に腸が煮えくり返るように、ものすごく腹が立ってしまう。

これは、たぶん単純な「外国人嫌悪」ではないんだと思います。

日本人が怒っているのは、「外国人だから」ではなく、「この場の作法を守っていないから」のほう。

特に、日本のディズニーランドなんて、その作法の権化みたいな場所ですよね。

スタッフ・キャスト・ゲストが一丸となってつくろうとしている「夢の国」にも関わらず、それを台無しにされると我慢ならないわけです。

だから運営にも「なんとかしろ!」と声高に要求しているわけですよね。

やっぱり、日本人は、人そのものを見ているようでいて、場のほうを見ている。

その人がどういう背景を持っているかよりも、この場において、ふさわしく振る舞っているかどうかを見てしまっているわけですよね。

ここまでは、昨日書いたことの延長線上にある話です。

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ただ、今日書いてみたいのは、さらにそのもう一歩先のことで、ここからが今日の本題です。

じゃあ、そういう「世間」や「場の圧力」に対して、僕たちはひたすら言語化をして、解像度を上げて、境界線を明確にしていけばいいのだろうか。

これは差別だ、これは不公平だと、そうやってできるだけ正確に線を引いていけば、僕たちは成熟していくことができるのだろうか、と。

たぶん、そう単純な話でもない気がします。むしろその幼稚さこそが、今の世の中を生み出してしまっているように、僕には見えてしまう。

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くれぐれもここで誤解しないでほしいことは、線を引くこと自体は、もちろん必要なんです。

昨日のブログでも書いたように、人権というのは、世間の中でずっと黙らされてきた人が、ようやく異議申し立てをするためにつくられた人工物でもあった。

「私はいま傷ついているし、この『普通』は私にとっては普通ではない。この場の秩序は、私の沈黙の上に成り立っている」

そうやって勇気をもって言葉にするためには、どうしても言葉による境界線が必要になる。

これはほんとうに大切なことだと、今も思っています。

でも、ここから先がやっかいだなと。

その引いた線にそのまま居着いてしまうとき、人はまた別のかたちで、他者を排除する方向に向かうわけですよね。

「差別された私」「加害された私」「正しい私」、あるいは解像度高く「構造を見抜いている私」というところに、いつのまにか居着いてしまう。

これって、いまの時代のかなり大きな落とし穴になっているんじゃないかと。

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そういえば、内田樹さんが、以前何かの本でとてもおもしろいことを話されていました。

キリスト教には、「信仰を持つことで、かえって主体のエゴが強化されてしまう」というピットフォールがある、と。

本来、信仰というのは、自分のエゴをほどいていくもののはずなのに、「信仰を持ったオレ」というエゴのほうが逆に肥大していってしまう。

一方で、東アジアの宗教文化のなかでは、信仰が深まるにつれて、人間がだんだん「雑」になっていく、と。

「信じると言っても、まあいろいろあるわな」という構えになっていくというような話だったかと思います。

この話が、最近ずっと頭のなかに残っていて。

そしてこれは別に、信仰の話だけのことじゃないような気がするんです。言語化や解像度の話にも、わりとそのまま当てはまる気がする。

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本来、言葉というのは、世界をより深く受け取るためのものだったはずです。

曖昧なものを丁寧に見つめるために、他人の痛みに気づくために、あるいは、自分の未熟さや加害性をちゃんと見るために、そういうものとしての「言葉」だったはず。

それなのに、言語化がうまくなればなるほど、いつのまにか「言語化できる私」のほうに居着いてしまうし、解像度を上げれば上げるほど「解像度高く物事が見えている私」に居着いてしまう。

そして、その「わかっている私」のところから、世界をすこしずつ断罪し始めてしまう。

これがほんとうに危ういし、世間のルールを覚え始めたばかりの中学生のように非常に幼いことなんじゃないか、と僕は思うんですよね。

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日本の成熟というものは、本来、もう少し別の方向にあったのかもしれないと感じます。

それは、境界線をどこまでも明確にしていく方向ではなくて、むしろ、境界線をできるだけうまく曖昧にしておくほうの作法をあえて持ち続ける、その胆力というか。

もちろん、最初から何も考えずに曖昧にするのは、ただの逃げです。

「まあ、いろいろあるよね」と言って、苦しんでいる人を黙らせるのは、成熟でもなんでもない。

むしろそれこそが、昨日書いた「世間」の悪いところでもあって、弱い立場のひとにカンタンに押しつけてしまう。これは本当にまずい。

でも、だからといって、すべての境界線をはっきりさせればいいのかと言えば、そうとも言い切れないはずです。

大事なのは、たぶん、一度ちゃんと線を引いたうえで、その線を絶対化しないことなのだと思います。ここでもまた「裏の裏」。

裏の言葉を手にしたあとで、もう一度表に戻って「とは言っても、生きているといろいろあるよね」と言えるかどうか。

この「まあ、いろいろあるよね」は、最初から何も考えていない人の曖昧さとは、まったく別物だと思うんです。

そして、僕は、ここにこそ日本的共同体の成熟のようなものがあるんじゃないか、と感じています。

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ディズニーシーの件に戻ると、いくらでも線は引けるんですよね。

外国人観光客のマナーの問題、世間の秩序の問題、不公平感の問題など、どの線も、たぶん完全には間違っているわけではない。

でも、そのどれかひとつの線をくっきりさせて、そこに居着いた瞬間に、話はやっぱり急に幼くなってしまう気がするんです。

本当に成熟した態度というのは、そのどれかひとつに決め切ることではないはずで。

たしかに日本人の怒りもわかる、でもその怒りは、いつのまにか異物排除に変わっていないか。そういう宙ぶらりんな問いを、結論を急かさずに、ひとりひとりが自分のなかでずっと持ち続けること。

それが、きっと大人になる、ということなんじゃないか、という気がしています。

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たぶん、ここで本当に大事なのは、その曖昧さを誰に担わせるのか、という問題なのだと思います。

日本社会は、ずっとその曖昧さを、弱い立場の側に担わせてきたところがありました。波風を立てない人や空気を読みすぎてしまう人、痛みを言葉にしない人など、そういう共同体にとって都合のよい人たちの沈黙の上に、曖昧な「なんか、いい感じ」を成り立たせてきてしまった。

だから、本当に何度も繰り返すけれど、人権や差別や加害といった言葉は、絶対に必要だったんだと思います。線を引くことは、まちがいなく必要だった。

でも、本当の成熟というのは、その線を引いたあとに、今度はその曖昧さを、自分自身の側で引き受けていくことなんじゃないか、と思うんですよね。

「あなたが我慢してください」ではなくて、「この曖昧さは、僕のほうで少し担いますね」と言えること。

そういうことが、本当の意味での大人なのかもしれない、と。

つまり、境界線を引けることが大人なのではなくて、引いた境界線の曖昧さを、自分ので担える領域をそれぞれに持つことが大人なんじゃないか、というふうに最近は思っています。

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そして当然、コミュニティをやっていると、この問いはそっくりそのまま自分自身に返ってきます。

コミュニティの意義を言葉にすればするほど、その場は少しずつ例外を認めない形で硬直化していく。「この場らしさ」が明確になればなるほど、その「らしさ」に合わないものが見えやすくなるわけです。

そして、場を守ろうとする気持ちは、いつのまにか、その場にふさわしくないものを排除したい気持ちのほうに、フワッと姿を変えて、居着いてしまうことがある。

だからこそ、自戒として強く思うんですよね。

場を守るというのは、境界線をはっきりさせることだけではないんだ、と。

その境界線に居着かないでいること。むしろ、その線によってこぼれ落ちるものを見続けて、その線が生んでしまう曖昧さを、誰かに押しつけずに、そこで起きてしまうトラブルなんかもちゃんと引き受けて、自分のほうで少しずつ担い続けること。

たぶん、場をととのえる、というのは、そういうことなんじゃないかと思うんです。

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そして、僕がいま「大人になる」と呼びたくなる姿は、そのような姿勢なのだと思います。

そんなほんとうの意味での「大人」が集まる空間にこそ、真の共同性が立ちあらわれてくるように感じています。

言い換えると、境界線を引くことよりも、境界線を消してしまうことよりも、そのあいだに生まれてしまった曖昧さを、自分のなかでちょっとだけ引き受けて、持ち続けてくれている人たちが集まる空間にこそ、真の意味での調和的感覚のようなものがあるんじゃないか、と最近はそんなふうに思っています。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日の話がなにかしらの参考となっていたら幸いです。