最近、河合隼雄さんの『家族関係を考える (講談社現代新書)』を読み終えました。

この本を手に取った動機は、あらためて今、「家族」や「イエ」について個人的に考え直してみたかったから。すると、ここ最近ぼくが抱いていた問いに対して、大きなヒントになるようなことが本書の後半部分で語られていてとても驚きました。

それは具体的には、日本人にとっての「イエ」の位置づけとは、一体どのようなものだったのか、というお話です。

先日書いたブログの中でも書きましたが、僕は、日本人にとっての「イエ」を考えることは、西側の「宗教」や「哲学」「資本主義」考えるのと同じぐらい、大事なことだと思っています。

その理由について絶妙なニュアンスを河合隼雄さんは本書の中で、見事に言語化してくれていました。

早速、以下で本書から少しだけ引用してみたいと思います。

アイデンティティと言えば、われわれ日本人は「イエ」の永続性の中にそれを見出そうとしてきた、ということができる。人間がこの世に生まれ、死んでゆくということには、どう考えてみても解らない非合理性が内在されている。宇宙全体のはたらきのなかで、ほんの束の間の存在として生まれてきたわれわれは、自分自身を何とか「永遠の相」の中に定位したいと願うものである。われわれ日本人はそれを「イエ」の中に求め、永遠の同伴者としての祖霊を大切にしてきたのである。     
現代人としての日本人は、古くからあるイエや祖霊を否定しようとした。それでは、われわれは何をその代りに持っているのだろうか。これに答えられぬ不安に気づきはじめた人々は、否定した古いものにもう一度頼ろうとする。そのことは家族にまつわる通過儀礼、誕生、結婚、葬式などが、最近極めて立派に行われるようになったことにも反映されている。しかし、実際は物質的な豊かさに比例して、そこには精神の貧困が感じられ、増大された不安は人々をますます物の世界に駆りたててゆくようにも思われる。


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これは本当にそう思いますよね。1980年に出版された本なのに全く古びていない。

特に、「否定した古いものに、もう一度頼ろうとする」というところは、現状も本当によく目にしますし、とはいえそうすることで「精神の貧困」が感じられて、余計に不安が増大するというのは本当にそうだなあと。

ゆえに、河合隼雄さんは、これからの”家族”は、その成員の各々にふさわしい「永遠の同伴者」を見出すことが大切であって、そのために「お互いの協調と、時には争いをも辞さない家族となるべきだろう」と語ります。

そして、そのときに家族の中心となるのは父親でも母親でもないし、子どもでもないのだ、と書かれています。

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じゃあそのときに、中心に存在するものは一体何が良いのか。

それが「永遠の同伴者」であるべきだと語るのです。

家族の成員は個性的に生きるために、他の成員によって自由を束縛されることを好まない。でも一方で、中心を欠いた自由というのは崩壊につながってゆくんだ、と。

つまり、このあたりは、引いてもダメだし、押してもダメだということですよね。

そこで、これからの家族はこのような「不可思議な中心」に、昔の「イエ」だったら祖先の霊をおいていた場に対して、何を見出してゆくかという大変な課題と取り組んでゆかねばならないのである、と語るのです。

非常にわかりにくい話をしてしまっているかもしれないですが、意外と話は単純であって、もう家父長制にも戻れないし、母親中心のフェミニズムみたいな話もそれが先鋭化すればするほど隘路に迷い込むことは明白だし、子供中心になるとお受験戦争だらけで、今のように子供の数もどんどん減っていく。

だから、「イエ」の復興のために何か強いリーダー、そんな中心的な存在を置くことはできないと教えてくれているわけですよね。

これはやはり河合隼雄さんの話なので、何度もご紹介してきた「中空構造」の話みたいだなとも思います。

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それでも何を言っているのか、意味がわからないよ!という方もいるかも知れないですが、以下で丁寧に説明させてください。

先日語った「贈与」の話にも繋がると思いますが、僕らはもう、昔ながらの「贈与」があった世界に立ち返ることはできない。

昭和的「贈与」も、まったくもって現代においては現実的ではない。それは、多様性がここまで広がってしまうと、相手への贈り物が「呪い」になるから、です。

でも一方で、その結果として余計に「寂しさ」を抱えてしまっているのが、僕らでもあるわけです。「人と人とがちゃんとつながっている、お互いに信頼し合っている」という実感を抱けないのだから、それは当然のことです。

ゆえに「贈与への憧憬」は募り、現代に合った第三の新しい道筋、そんな「イエ」を考えていかなければいけないんだ、というのが先日のブログで僕が言いたかったことです。

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で、これは「贈与」に限らず、たとえば「故郷(ふるさと)」なんかも、全くもって同様の話だと思います。

宗教、特に一神教を持たない日本人にとっては、自己のアイデンティティを保証してくれるものはずっと「イエ」だった。故郷も、本来はそのような「イエ」の延長だったんだけれども、現代には、もう故郷もほとんど機能していない。

何か自らをこの世に繋ぎ止めてくれる、自らのアイデンティティを確立するための拠り所が今本当に必要なんだけれど、でも、イエや故郷、贈与さえも破壊されてしまっているのが現代日本なわけです。

だからこそ、一部の若い人たちは河合隼雄さんが語るように、否定した古いものにもう一度頼ろうとする。

たとえば今ならわかりやすく、ローカルに移住をする。そこで地方創生の文脈において、ふたたび地域コミュニティを復活させようとしている。

でもそれらもきっと徒労に終わるだろうなと、最近の僕は無慈悲にも思ってしまいます。

実際、僕もその文脈にメディアとして加担していたこともあるからこそ、余計に強くそう思う。それが僕自身も頼みの綱だと思っていた時期もありましたが、でもたぶん違うんですよね。

河合隼雄さんが指摘しているように、物質的な豊かさとは裏腹に、ますます精神的な貧困と不安に苛まれてしまい、逆にそれらの不安が肥大化するだけだと思います。

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で、きっとここで大事なことは、欠落を埋めることではなく、欠落と向き合うことのほうなのだと思います。その先に新たな「永遠の同伴者」も立ち現れてくる。

ここが今日一番強く強調したいポイントです。

欠落を必死に埋めることよりも、ある意味で欠落それ自体が、自分自身であるということを認めることが、何よりも大事なんだろうなあと。

こちらも最近読み終えた村上春樹さんの『国境の南、太陽の西』という長編小説の中に、以下のようなくだりが出てきます。

どんな場面で語られる言葉なのかは説明せずとも、このブログを普段から読んでくださってる方であれば、今日の文脈とも合わせて、主人公の「僕」がこの独白の中で言いたいことは、とてもよく理解できるかと思います。

以下、引用です。

「僕はこれまでの人生で、いつもなんとか別な人間になろうとしていたような気がする。僕はいつもどこか新しい場所に行って、新しい生活を手に入れて、そこで新しい人格を身に付けようとしていたように思う。僕は今までに何度もそれを繰り返してきた。それはある意味では成長だったし、ある意味ではペルソナの交換のようなものだった。でもいずれにせよ、僕は違う自分になることによって、それまでの自分が抱えていた何かから解放されたいと思っていたんだ。僕は本当に、真剣に、それを求めていたし、努力さえすればそれはいつか可能になるはずだと信じていた。でも結局のところ、僕はどこにもたどり着けなかったんだと思う。僕はどこまでいっても僕でしかなかった。僕が抱えていた欠落は、どこまでいってもあいかわらず同じ欠落でしかなかった。どれだけまわりの風景が変化しても、人々の語りかける声の響きがどれだけ変化しても、僕はひとりの不完全な人間にしか過ぎなかった。僕の中にはどこまでも同じ致命的な欠落があって、その欠落は僕に激しい飢えと渇きをもたらしたんだ。僕はずっとその飢えと渇きに苛まれてきたし、おそらくこれからも同じように苛まれていくだろうと思う。ある意味においては、その欠落そのものが僕自身だからだよ。僕にはそれがわかるんだ。」


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欠落をきれいに埋めた自分、そんな幻影や亡霊のようなものを探せば探すほど、むしろより一層深みにハマってしまう。

逆に欠落そのものが自分自身だと認めたうえで、そのうえでたち現れてくる「永遠の同伴者」を再構築をしていくことが大事であって、そこからまた、新たな「イエ」つまりコミュニティをつくりだしていくこと。

きっとここで「同伴者」と書くから「人」を想像してしまうと思うのだけれども、決して「人」には限らないと思います。「永遠の同伴”存在”」と言い換えてもいい。それはどちらかといえば「場」であり「空っぽ」に近い何かだとも思います。

そして僕がこのWasei Salonを通じてつくり出したいのも、まさにそれなんですよね。

じゃあ、今のこの空間自体が正しいのかと問われれば、それはわからない。たぶん、今のところ9割方は間違っていても何の不思議でもないなとも思う。

ただ、唯一自分が自分に対して、それでも活動し続けることを自らに肯定づけられるのは、「問い続ける」とはじめから決意しているからだと思います。

どこにも見つからない以上、そんな終わりのない「過程」や「循環」の中にしか立ちあらわれてきてはくれないものであると信じているということなのかもしれません。

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先ほど引用した部分に続けて、河合隼雄さんは本書を以下のように締めくくっていました。

このことは、もちろん、家族を持たないことによってこそ永遠の同伴者を得る人があることも、考慮にいれて述べている。家族の有無よりも、永遠の同伴者の方がはるかに大切である。最後に、この同伴者はわれわれに、思いがけないいけにえを強いるものであり、そのいけにえを受容する態度も必要であることを、再度つけ加えておきたい。


1980年に出版された本とは思えないほど、本当に今日性のある話だなと思います。

現代の最前線の課題であり、逆に言えば、この40年以上、この国において一切変わっていないテーマでもあるのだと思う。

そして、「いけにえ」の話を付け加えてくれることも河合隼雄さんの真の「恐ろしさ」でもあり、一方で最大の「優しさ」でもあるなあと思います。

一体何の話をしているんだ?と思われてしまったかもしれないけれど、いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても今日の内容が何かしらの参考となっていたら幸いです。