最近よく思うことなのですが、もう「純粋な読者」や「純粋な消費者」はどこにも存在しないなと思います。
どうしても僕らは、何か自分たちがビジネスを立ち上げるとき「純粋な読者」や「純粋な消費者」のようなものを想像しがちです。
でも、そんな存在、古くは「一般大衆」と呼ばれていたような人々は、たぶんもうどこにも存在しないんですよね。
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じゃあ、その代わりに今は一体何が存在しているのか。
それは「傷ついた書き手」であり「傷ついた売り手」であり、つまりは「傷ついた提供者」だけなんだと思っています。
過去10年間ぐらいのどこかのタイミングで、個人で何かしらの挑戦をし、ことごとく「失敗した提供者」たちがいるだけ。
もしくは、その挑戦さえもすることさえできずにグズグズといつどの段階で副業や独立をしようかと考えながら、この10年間うっくつした状態で、失敗さえも経験できないでいる「提供者に憧れ続けてきたひと」もいるかも知れない。
なんだったら、外傷はないけれど、そのひとたちが一番内心では傷ついているのかもしれません。
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だから、実際には、彼らのような存在に対して、その傷を癒やすような、つまり彼らに対してケアできるような商品やサービスが、近年のビジネスの主流となってきている。
言い換えると、いま世の中のビジネスの多くは、「純粋なカモ」ではなく「カモを探しているひとたち」がカモなんですよね。
いかにそんな「幻想の世界のカモに向けて、縄を投げようとしているひと」に対して、縄を売るか、みたいな状況になっている。
彼らの足元に、あたかもカモがいるように思わさて、そのノウハウを買わせるのですが、本当の消費者は、そのひとたち自身であるわけです。まさに、マルチ商法のような構造ですよね。
いま「AI」のようなものが登場してきて、そのAIによって「傷ついた提供者」たちの傷がケアできるように思わされている。
具体的には、これを使えばあなた達の「提供者としての成功も約束されていますよ!」と謳っているわけですよね。
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彼らが毎日そんなつるはしを買っていて、彼らのような存在が自らの傷を必死で癒やしたくて、そのノウハウを手に入れようと躍起になっている。ソレを売ることが金になる時代。
なぜなら、「傷ついた提供者」たちは、何よりも自分の有力感を感じたいから、です。
自分自身が他者をケアしたい、そして相手から感謝されたい、喜ばれたい。そう願ってやまないわけです。
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で、ここまで語ってきた「傷ついた提供者」のお話は、もちろん、先日ご紹介した東畑開人さんのデビュー作にして圧倒的な名著である『野の医者は笑う』の話を想定して書いています。
あの本の場合、沖縄という限られたエリアの、しかもスピリチュアルという限られた話ではありましたが、本の中で語られていた構造は、現代社会のいたるところに存在している。
つまり、「失敗した提供者」というのは「傷ついた治療者」とまったく同じなわけですよね。まさに「野の医者」のような存在であると。
それゆえに、この本が現代を生きるうえで必読の本だと僕が思っている理由です。
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で、僕はこのようなビジネスを批判したいわけでもないし、石を投げたいわけでもない。
そのような「傷ついた労働者」たちに対して何か「ケア」を提供することが間違っていると言いたいわけでもない。
今は、ありとあらゆるビジネスがそうなりつつあるということを指摘したいんです。
たとえば、最近ディズニーシーに新しくできたエリアなんかも、昔だったら本当に純粋な消費者や、絵にかいたような「家族」の旅行者が想定されていたと思います。
でも今は、あのような新しい舞台をオリエンタルランドが提供をし、その情報を拡散するマスメディアの代わりを担うインフルエンサーたちが、そのまま「消費者」になっている。
そして、その「消費者兼インフルエンサー」が幻想を振りまくことがさらに、またその下のマイクロインフルエンサーたちが足を運ぶ機会が生まれる。
つまりオリエンタルランドでも、見方を変えれば似たようなマルチ商法のようなヒエラルキー構造を作っていたりするわけですよね。
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このように、今、社会の本当の消費者として立ち回っているのは、自らが提供者側に回りたかったのに、実際にはうまく立ち回れなかった「傷ついた提供者」たちなのです。
これが最近どんどん加熱してきていて、たとえば都心の不動産や株式投資だって、すべてそう。
あとは、たとえば半導体ビジネスだってそう思います。
なぜ、これだけNVIDIAの半導体が売れているのか、時価総額がAppleを超えて世界で2位のポジションにまで来たのかと言えば、それは「傷ついたプラットフォーマー」たちがいるからですよね。
僕らの生活の中では、NVIDIAのロゴなんてほとんど見かけないとしても、「傷ついたプラットフォーマー」もしくは「新たな傷に怯えるプラットフォーマー」たちが、我先にと買い集めている。
ゆえに、一般消費者の僕らにはまったく日常生活の中で見かけない「半導体」も売れに売れている。
そういう意味では、ジェンスン・ファンは凄まじい経営者だなと思います。ゴールドラッシュに群がるひとにツルハシを売った以上の話。AI時代において、もっともっと川上に行って「そもそも」に売ることを考えたわけだから。
そして、そこにバブルが形成されて、それがいつか弾ければ、もちろん一番高いところで掴んだひとがババを引く構造。
それは、圧倒的に遅れてやってきた「買い手」じゃなくて、自分も他者に売って稼ぎたいと思っている「売り手」であって、その遅れてきた「売り手」は、まさか自分が「カモ」の買い手だとは誰ひとり思っていなくて、そういうとき、大抵の場合これからも価格や価値が上がると思っている一般人の投資家であって、一番何の保証も担保も持たないタダの一庶民なわけです。
大きな痛手を負うのはいつだってそんな末端の人々であり、社会全体で、大きなマルチ商法をやっているようなもの。
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あとは、インバウンドとかも結局のところ、同じような構造だと思います。
彼らは「日本を楽しむ」というよりは、日本に視察にきて、取材して自分たちのSNSのコンテンツをつくっているような状態。
みんなが自らの発信ありきのための「経費の旅、経費の消費」をしている。
そのなかで、本当の富裕の富裕だけが、ただただ浪費しているようにも見える。
でも、そのような富裕層の行為でさえも結局は、自らが有閑階級であることを見せびらかすための消費だったりもして、それこそがブルシット・ジョブの典型だったりもする。
つまりここにも似たような構造が存在している。
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このように、人の流れみたいなものが、あきらかに変化してきているなと思います。
「一億総・マルチ商法化社会」とも言えそうです。
それもこれも、現代は「みんなが傷ついている時代だから」だと思います。傷がない人なんていない。必ず誰もが多かれ少なかれ、過去に対して大きな「後悔」を抱えてしまっている。
じゃあ、一体なぜそうなるのかと言えば、あまりにも僕らが「自由」を追い求めた結果であり、その反動なんだと思います。
言い換えると「不自由だから仕方ない」という言い訳のもと、自分の状況に対して「無責任」ではいられなくなった。
逆に言えば、そのような無責任でいられた人々が従来の「純粋な消費者」であり、昔ながらの「一般大衆」だった。
今は、すべてが「自己責任」というキーワードで回収されてしまうような社会になってしまったんだと思います。圧倒的で輝かしい「自由」を追い求めてそれが実際に叶ってしまったがゆえの、大きな代償です。
現代人はたとえどんな状況にいても、過去に「より良い状況を選び取る自由が自分にあったこと」を想像できてしまうがゆえに、すべては、あのときに「決断・参加・学ぼう」としなかった私の責任になる。
つまりその過去の自分に向けられるまなざしによって、本来は存在していない傷でさえも遡及的にそこに発生させ、新たに「傷」が生まれて、実際にそれでうまくいった身近な人間と比較をして、自己に欠損感を感じてしまうわけです。
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だから、今日の話から学べる教訓があるとすれば、きっとふたつあって。
ひとつは、もう純粋な読者や純粋な消費者なんていないということに一刻もはやく気づき、みんなが「傷ついた提供者」側であるということを理解したうえで、徹底的にその人達に対してのケアすることをビジネスにすること。
そのひとたちの傷が癒やせるように必死になって、あの手この手をつかってケアをすればいいんです。
具体的には、未来の可能性を見せてあげればいい。「AIによって輝かしい未来が待っていますよ!」というのは、そのへんの主婦からGAFAのようなプラットフォーマーまで「傷ついた提供者」全員が期待していること。
そしてそのひとたちが必要としている幻想、つまり「いつかはこの傷が癒えて、私も理想的な提供者側になれるんだ!」と思うことができる幻想を売り続ければいい。
このあたりを意識してビジネスを仕掛ければ、きっと失敗はしません。そうやって、沖縄の「野の医者たち」と同じように、スクールビジネスでも始めればいい。
もちろん、そのスクールの中で思うような結果が出ない受講者がいたとしても「それは自己責任だ!」と突っぱねればいい。
「実際に結果が出ているひともいるんだ」と他の受講者を指さしながら言えてしまうのも、現代の「自由」を礼賛してきた世の中の特徴です。「努力しなかったあなたの責任ですよね?」と。
あなたの決断力のなさ、参加態度の悪さ、センスがなかったんだって言えばいいわけですから、まず間違いなく詐欺にはならない。
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ただ、あまりにもそれは世知辛いし、僕はそのようなマルチ的な構造には加担したくはない。
だってそれは、躁鬱状態を新たに作り出しているだけですから。鬱だったひとたちに、つかの間の幻想を見せて、躁状態に駆り立てているだけ。
だからもうひとつは「傷があるのが人生だ、四苦八苦こそが人生だ」と、真の意味で腹落ちできるような状態、そんなふうに現実をありのままに見つめて、問い続ける姿勢を持つひとたちと、共に過ごせる空間や場をつくりたい。
言い換えると、無理に傷を癒そうとするわけでもなく、なくならない傷を無理に隠そうとするわけでもなく、傷こそが私の一部だったんだ、傷がない私は「私」ではないということに気づけるかどうか。
これは昨日もご紹介した村上春樹さんの小説の中の「欠落」の話ともダイレクトにつながっていて、本当は欠落と向き合うこと、その欠落自体が自分自身であると理解すること。
そうやって、傷と正しく付き合えることの方が僕は圧倒的に大事だと思っていて、僕はそちら側を提供したい。
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僕自身も、文字通り「身体に消えない傷」がいくつかあります。それを消したいと思っていた10代のころもありました。
でもそうすると、より隠す方向へと向かってしまう。美容整形なんてその最たる例だと思います。それには、終わりがない。新たな画期的な技術に対してずっと依存し続ける。いつまでも終わらないイタチごっこです。
そうじゃなくて、傷や老いも含めて、その欠落こそが自分なんだと思えること。今、とても大事な視点だなあと思います。
僕が「ケアしない勇気」と言い続けているのは、つまりはそういうことでもある。
無意識のうちに傷はすべてケアすべきものとして眺めてしまう、そんな「私とは何か」を問い続けるための空間をつくりたい。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにっとても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。
2024/06/07 21:15