最近、今年の本屋大賞を受賞した阿部暁子さんの小説『カフネ』をオーディオブックで聴き終えました。

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この本は、本当に素晴らしい作品でした。そして、この『カフネ』という作品は「現代版のアンパンマン」みたいだなあと思ったんですよね。

今日はそんなふうに考えた理由について、自分なりに深堀りしながら改めて考えてみたいなあと思います。

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まずは、そもそもアンパンマンとは、どんな物語なのか?

最近、朝の連続ドラマ『あんぱん』が話題で、さまざまな「アンパンマン」及び、やなせたかしにまつわる書籍や番組なんかも多数制作されています。

それらを見たり聴いたりしている中で、僕が強く思うのは、やなせたかしもまた、昨日の最所さんのVoicyの中でお話した村上春樹や水木しげる、花森安治のように「デタッチメント」のひとだったということです。


世間一般的な「正義」を疑い、自分なりの正義とは何か、を徹底的に問い直して、それを自らの作品に昇華させたひと。

こちらもオーディオブック化もされている『アンパンマンの遺書』という本のなかで、やなせたかしご本人も以下のように書かれています。

子供の時から、忠君愛国の思想で育てられ、天皇は神で、日本の戦争は聖戦で、正義の戦いと言われれば、そのとおりと思っていた(中略)しかし、正義のための戦いなんてどこにもない。正義はある日逆転する。正義は信じがたい。


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このように、政治による人為的に引き起こされた戦争に、人生を振り回されたことによって、本当の正義とは何かを徹底的に問い直したひとが、やなせたかしだったのだと思います。

で、その結果、やなせたかしが考える「正義」とは、自分の目のまえに飢え死にしそうなほどにお腹を空かせている人がいたら、自分が持っているパンを半分こして、あげたくなる気持ち、だったそうです。

つまり、「アンパンマン」という作品の根底に流れる思想は、そんな戦争体験から導かれたやなせたかしの「正義」の定義、「お腹をすかせて困っている人を助けること」であり、それはごく日常的で具体的な贈与行為(アンパンを分け与える行為)として描かれているわけですよね。

そして、そのような正義感は、みなさんがご存知のように、広く日本中で受け入れられて、僕ら日本人が生まれてきて一番最初に触れる正義感としても今も変わらずに30年以上、輝き続けているわけです。

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ただ、今の世の中でのむずかしさというのは、その正義、正解、正しさもまた、良くも悪くもわかりにくい世の中になってしまっていること。

腹を空かせているひとにパンを与えるというのは、とてもわかりやすい。でも、孤独や孤立は、一体どうすればいいのかがわからない。

言い換えると、もう昔みたいに全員が空腹だった、というわかりやすい時代ではなくなってしまったということです。

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ちなみにこれは少し余談なのですが、僕が中国で暮らし始めて一番最初に驚いたのは、挨拶のように「ご飯食べた?」と、ありとあらゆる人々から聞かれることでした。

これが大きなカルチャーショックのひとつ。ただ、中国ではこれは当たり前で「ご飯食べた?」が挨拶代わりになるぐらいに、「ごはんを食べたかどうか?」という問いかけは、相手に対する思いやり、ケアする態度の証だったわけですよね。

それゆえに、今も変わらず「こんにちは!」ぐらいの頻度で用いられている言葉になっている。

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一方で、現代の日本では、公害も飢餓もなくなった。

にも関わらず、明らかな飢餓感のようなものは未だに蔓延している。

宮台真司さんは、今はみんながきれいな格好をしているから、お互いの貧困さえも見えなくなったと以前何かの番組で語っていました。

当然、それは物質的な貧困だけではなく、心理的な貧困も見えなくしてしまう。全員が大きな飢餓感を抱えていても、その状態がわからなくて、それゆえにお互いに大きくすれ違ってしまっている。

それをどうやって満たしていくかが大事なポイントであって、そのための物語が紡がれていく必要があるのだろうなあと。

で、その漠然とした「飢餓感」とは何かを明確にして、そしてそれはどうやったら満たされていくのかということを描いた作品が、この『カフネ』という作品なんだろうなあと思いました。

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冒頭では、登場人物同士、相手に対して感じ悪い印象を抱き「相手が私に突っかかってきただけ、自分は悪くないんだ」というその感じの悪さのぶつかり合いが、前半では痛いほどに繰り広げられていく。

そして、その理由や原因みたいなものが後半では徐々に明らかにされていく。そのすれ違いや、分かり合えなさの伏線回収の様子も本当に素晴らしかったです。

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そしてこの『カフネ』という作品もまた、アンパンマン同様に「食べる」という行為を通じた「贈与」によって、人々の抱える飢餓感を満たそうとするわけです。

それは具体的な物質的飢餓ではなく、心理的な孤独感、具体的には関係性の希薄さ、根源的な自己肯定感の不足という形を満たすための「食べる」の贈与なんですよね。

だから、僕は現代版「アンパンマン」であり、アンパンマンの中で描けれる正義を、現代版にアップデートしているなあと思ったのです。

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これっていうのは、ただただお互いに「対話」をするだけでもむずかしい。言葉だけでは補えないもの。そして、そこには必ず「食べる」としての「贈与」が必要になる。

言い換えると、対話だけでなく、共に食卓を囲むこと、食事がいかに人間にとって大事なことなのか。

ネタバレにならない程度に書くとするならば「情けは人の為ならず」というようなことも同時に見事に描かれるんですよね。

ペイフォワードするからこそ、それが巡り巡ってまた返ってくるということも同時に描かれてある。

アンパンマンだって、そうですよね。あれは決してアンパンマンの自己犠牲ではない。必ずまた、ジャムおじさんが新しい顔をつくってくれると思うから、惜しみなく分け与えることができるわけですから。

そうやって、巡り巡って戻ってくることを深く確信している。

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カフネの中にもまた、そんなジャムおじさん的な「肝っ玉母さん」のようなひとが出てくる。

ここにも、アンパンマン的な「贈与」が見事に重なります。そして、その贈与を巡る物語、そこから生まれる新しい「家族」の物語でもあるのも本当に素晴らしい。

それは、艶っぽい「恋愛」としてではなくて、今の時代にあった「愛」の新しいカタチが描かれている。

愛というのは決して、異性愛や同性愛だけではない。もちろん、親子の愛や親友との愛だけでもない。

もっと高次の視点、恋愛感情を超えた意味での苫野一徳さんの「愛」の定義である「合一感情と分離的尊重の弁証法」その本質が描かれてあるなあと、僕なんかは思いました。

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アンパンマンの世界もまた、家族や恋愛という狭い枠組みを超えて、人間同士が助け合うことで成り立つコミュニティを、あのアニメの中で描いてある。(もちろん、ばいきんまんも込みで、です。)

『カフネ』は、まさにその現代版として血縁や恋愛を超えた「新しい共同体」を日常の小さな贈与を通じて、立ち上げようとしているんだろうなあと強く感じました。

これもまさに、物語というフィクションを空中庭園のように立ち上げることによって、逆に、強いリアリティをもって感じられるという話。

たとえフィクションであっても、物語であっても、リアリティを感じ取りながら僕ら読者は、それを深く受け止めることができる。

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最後に、本書の中では『カフネ』という言葉の意味も語られてあります。

具体的には、ポルトガル語で「愛する人の髪にそっと指をとおすしぐさ、頭をなでて眠りにつかせるおだやかな動作」を意味する言葉だそうです。

その日本語には訳しにくいなんとも言えない「愛おしさ」を、1冊の物語を通して見事に表現をしている。

なにはともあれ、本当にものすごく今日性のある作品だなあと思います。

従来的な恋愛観や、従来的な家族観ではもう埋められないものが見事に埋められている。そこにひとつの可能性を提示し、仮説を示してくれる作品。

ぜひみなさんにも読んでみて欲しい。オーディオブックもオススメです。

この1冊を読み終えると、見事に現代を生きる僕らの飢餓感はまさにそこにある、というふうに思えてきて、その正体がハッキリと伝わってくると思います。同時にその正体を癒やす方法も、伝わってくるかと思います。

このような関係性の構築を実社会を通して、僕は増やしていきたい。このWasei Salonもまた、そんなことを実践する場所でありたいなあと強く願います。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。