今夜、Wasei Salonの中で開催される、哲学者・西研さんが書かれた『NHK「100分de名著」ブックス ニーチェ    ツァラトゥストラ』の読書会。


この課題図書を読んでいる中で、僕がとてもおもしろいなあと感じたポイントがありました。

それが何かといえば、「祝福することのできない者は、呪うことを学ぶべきだ」というニーチェの言葉です。

一般的には呪いというのは、ネガティブに捉えられがちなもの。

でもそんな呪いに対して、肯定的に明るく語るニーチェの視点が、非常におもしろいなと思ったので、今日はこのブログの中でこの話をもう少し個人的に深堀りしながら考えてみたいと思います。

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まず、ニーチェはなぜ呪うことを学ぶべきだと明るく語っているのか、さっそく本書から少しだけ引用してみたいと思います。

たとえば、好きな人がだれかと結婚してしまったとしたら、そう簡単には受け入れられません。「だったら思い切って呪えばいい。バカヤローと叫びなさい」と。そして注目すべきは、これを「明るい教え」といっているところです。    
(中略)
自分のルサンチマンをごまかしたり押さえつけたりするくらいなら、自分がこれを受け入れられないことをハッキリと認めよ。そして、叫べ、呪え、というのです。これはぼくは、じつに正しい、健康な思想だと思います。しかし、この「呪うことを学べ」という思想は意外と注目されず、「ルサンチマンはみっともない」と読まれがちですが、ここはとても大事な点だと思います。


これは非常に共感する視点です。

僕自身も、西研さんが書かれているように、これはじつに正しい、健康な思想だと思います。そして、忘れられがちだけれど、とっても大事な視点だなあとも思う。

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じゃあ、この場で改めて考えてみたいのは、なぜ「呪い」というものは、現代社会においてはこれほどまでに嫌われるもの、忌避されるものとなってしまったのか?

思うに、それは本人のSNS上のタイムラインという至極個人的かつ、一方で完全に公の場というアンビバレントな空間でそんな呪いの言葉が語られて、最終的には、その呪われた本人の目にも届いてしまう可能性があるからだと思います。

つまりSNSの登場で、呪いが表に出てしまった。そして、本当に一生”情報”として残るものとなってしまって、他者の心身を害するからこそ嫌われるものとなってしまったと。

だからこそ、呪いというのは、それ自体がタブーでありNGとなってしまったわけですよね。

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でも、果たして本当にそうなんだっけ?とも同時に思うのです。

「呪い、ダメ絶対!」と薬物のように扱うことが、本当に健やかな生き方につながるのか。

むしろ、そうやって呪いを吐き出さないでいて、本当は存在するのに見て見ぬふりをしてしまうと、それは身体の中で静かに本人を蝕むことにつながる。

だから、直接的に相手に届かなければ、少しぐらいは良いのでは?と思います。

つまり本来、これは「公共の福祉」のような問題であって、他者の権利を侵害しているか否かの話で考えるべき話だなとも思うのです。

実際、世界中のカウンセリングルームでは今日も行き過ぎてしまった呪い、その除霊のような治療が日夜行われているわけですし。

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だとすれば、呪いとまではいかずとも、自らの中に存在する違和感を、違和感のまま受け入れること、そしてそれを限られた他者にも、表明することができること。

僕はこれが意外と大事な作業だと思うんですよね。

大体の文学的作品も基本的には、そんな呪いが描かれている場合が多いわけですから。

著者の西研さんも、本書のあとがき部分でこの話題について再び言及し、呪いや恨みのなかにずっと埋没してしまっていると、いつの間にか、二つの大切な感覚を失ってしまうと書かれていて、それが「主体性の感覚の喪失、喜びの感覚の喪失」だと書かれていました。

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で、このあたりから今日の僕の提案でもあるのですが、だったら、実際に小さなクローズドなコミュニティの中では呪ったっていいじゃないかと思うのです。

そうすれば、成仏させることができる。成仏できるからこそ、それは呪いでもあるわけで。

実際Wasei Salonの中でも「成仏させたくて、書きました」と懺悔するようなブログやつぶやきは頻繁に投稿されています。

そして、それは、決して不快ではない。

いや、嘘です。ものすごく不快なときもある。当然ですよね、それは自分宛てではないにしても、他者に向けられた呪いなんだから。

でも、それも含めて、問い続けている過程の葛藤や戸惑い、躊躇いだと思うのです。

だとすれば、臭いものに蓋をするのではなく、まあちょっと臭うかもしれないけれど、それも含めて、生きるという行為そのものだよね、とお互いに祝福したい。

言い換えると、きれいな場面だけじゃないよね、本気でなにかに取り組んでいれば、必ず醜く汚い部分や、呪いは生まれてくるよね、というお互いの共通認識や相互理解のほうが大切な気がしています。

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だから、その呪いの気持ちを成仏させるための場というのは、本当に大事だなって思うのです。

そして、より重要なポイントは、そんな呪いもちゃんと吐き出せば、決して長くは続かないということ。

ちゃんと発露されて、成仏させようという気持ちが本人の中にちゃんとあって、周囲がそれをただただ黙って見守っていれば、意外とちゃんとすぐに枯れていくし、忘却されていくような感情でもある。

文字にすると、なかなかにどす黒いものだったりもするのだけれど、そのパンチの強さゆえに、意外と寿命は短いものだったりするなと思います。

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繰り返しますが、ダメ絶対!としてしまって、見て見ぬふりをしていると、いつのまにかそれが身体の中で発酵や腐敗しぶくぶくと膨れ上がり、がん細胞のように全身に広がってしまう。

それは自らの脳や意識までを見事に覆い尽くして、もはや本人にはそれが「呪い」であるといことさえ、わからなくなる。

そこまで行くと、もはやプロのカウンセラーたちに医療技術を用いて癒やしてもらうほかない。

でも、もっともっと小さい段階であれば、東畑開人さんが語るような「ふつうの相談」の中で、その芽をつむことも可能だと思うのです。

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もちろん、ここでも但し書きは存在していて、いつも語るように大前提としてそのような呪詛の言葉を書き綴る場合であっても、他者への敬意と配慮と親切心、そして礼儀が必要だと思います。

これだって、持ちつ持たれつであり、当然の権利ではまったくない。

それを受け止めてもらえる空間があることは、文字通り、ありがたいことなのだという意識をそれぞれに持つこと。

でもそれさえしっかりと守り合って、健全に機能している風通しの良いクローズドな空間であれば、僕は呪いの成仏をし合う関係性もアリだと思っています。

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もともと2010年代前半のTwitterという場所だって、そんな呪詛の言葉を書き連ねる場所として”も”機能していたのですから。当時のブログだってそう。

そしてその当時が、SNSやインターネットが一番輝いていた時代だとも言われている。

みんな表の社会では、いろいろと清廉潔白そうな顔をしているけれど、実際にはそうじゃないことを知れて安堵できる場所でもあった。

でもそれがあまりにも広く一般的になりすぎてしまい、その輝きにつられて、多くの人が参入してきた結果、オープンの世界と何も変わらないものになってしまった。

つまり、公共空間になりすぎてしまったわけですよね。

その結果、残るは、完全に開き直るような呪いの言葉を書く場なんかにも変貌してしまった。そこには他者に対する敬意も配慮も微塵も存在していない。

そうなるともはや手はつけられない。まさに今のSNSの末路です。

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だから、本当に大事なことは、呪いを書こうとするときの後ろめたさと、他者に対する敬意のほう。そしてそれが拡散されていかないクローズドの空間と、風通しの良さ。

繰り返しますが、小さな呪いだったら、ある程度までは「ふつうの相談」が健全に機能する共同体でもって受け入れられる。

コミュニティの文化や価値観、日々の行いによって、浄化させる作用を生み出せる。

それこそが、コミュニティのちからだなあと思います。三人寄れば文殊の知恵みたいな話でもある。

だからこそ僕は日々、この場所を淡々と掃き清めるようにしてブログを書き続けていて、そして同時に時々、自分自身でも呪いを撒き散らしてみている。

そうやって、堆肥のようにして土壌が循環している空間をつくりたいなあと思います。

神社で行われている祭りや、縁日の後の汚れ、そこからの平常化という流れがあの空間を神聖なものにしているように、ハレとケのコントラストを丁寧に生み出していきたい。水清ければ魚棲まず、なわけですからね。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。