「一身独立して一国独立す」 

福澤諭吉の有名な言葉です。中学生のころに、この言葉を初めて聞いたときから、ずっと不思議でした。

「そんなことをしたら、みんな出て行ってしまうのではないか?」と。

実際、平成に「グローバル化」が持て囃されたとき、経済的自立を果たした人たちの一部は、日本を離れていきました。

でも最近になってようやく、この言葉の真意が少しずつ理解できてきたように思います。

それが今日のタイトルにもある通り、「私を独立させてくれた場所」が一番帰りたくなる場所だということです。

今日はそんな発見を少しだけ、ここに書き残してみたいと思います。

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思うに、ひとが本当の意味で独立し、「真の独立」の意味を理解できたとき、ひとはどこまで行っても"独立できない"ことを悟るのだと思います。

「決して人間はひとりでは生きられない、必ず依存してしまうのが人間である」と。

そんなときに、自己の生い立ちに立ち戻り、自分の故郷を思い出す日が必ずやってくるということなのでしょう。

だからこそ、やっぱり「一身独立」したほうがいい。

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その際に中途半端に独立させないことです。徹底して独立させること、それが非常に重要になってくる。

経済的に自立し、自発的に考える癖を身につけさせ、自らの思考が深まっていくスパイラルを生み出してしまえば、もうその結論に辿り着かずにはいられなくなる。

歴史、生物、科学、宗教、哲学、どんな学問であっても必ず「すべては人間が社会的な動物であること、ひとりでは決して生きられない」という結論に辿り着いてしまうのです。

これは本当に不思議なこと。

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また、だからと言って「人間は依存する生き物だ」と、子どものころから言い聞かせてみても全く意味がない。

このことを本人が心の底から理解するためには、やっぱり「徹底的に独立したい」と思わせたほうがいい。この矛盾もまた、人間のおもしろいところです。

喩えるなら、ビジネスにおいて「自分の利益」を最優先することが結果的に一番損をして、「自分の利益」を一番後回しにして、先に相手に与えるひとが最終的には一番多くの"利"を得るようになっていることに非常に近い。

また、「実るほど頭を垂れる稲穂かな」という教訓もこの矛盾を見事に言い表していると思います。身分の高いひとは道徳的にそうして謙虚に振る舞っているわけではなく、それが一番合理的な選択だと理解するから、自ら進んで頭を垂れるようになる。その話にも非常によく似ている。

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だからこそ、身近にいるひとはドンドン独立させましょう。

もちろんその結果、本当に帰ってこない場合もある。経済的な自立を果たすことで、紐の切れた風船のようになってしまい、そのままどこかに飛んで行ってしまうこともある。

しかし、それはそれで一向に構わないと思える勇気が大切です。独立させるときは、相手に何も期待しないこと。手放す時は、思いっきり手放してしまう。

関係性を一切断つぐらいが、きっとちょうどいいのだと思います。

あと、独立の物語は決して一代では終わらないのが、人間社会のさらに興味深いところです。

3代ぐらいあとになって、完全に忘れたころに戻ってきたりもする。自己のルーツ探しは、決して一代では終わらないのです。

だからこそ、いかなる場合であっても相手の幸福を祈り、完全に忘れてしまうぐらいがちょうどいい。

そして、こちら側はいつでも「開かれている状態」であることだけをしっかりと明示して伝えておく。

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このお話は、国家と国民、会社と社員、親と子ども、教師と生徒、夫と妻など依存関係に陥りやすい間柄においては、すべて同じ話が適用できるかと思います。

「私を独立させてくれた場所」が一番帰りたくなる場所であり、逆に私に何から何まで与えてくれて、私をその場に依存させようとした場所が、本当の意味で独立を悟ったとき、一番帰りたくない場所であること、それを肝に銘じる。

これが、他者を独立させる側の責務だと思います。