「自分が死んだ後のことは、どうなったって構わない」

そう言いながら、次世代が享受するはずだった資源を使い果たし、負債(借金)だけを残して、この世に去っていくひとたちがいます。

人間の権利としては、そのような生き方も認められるのかもしれませんが、僕は倫理的には決して正しくないと思います。それは以下の記事でも書いたとおり。

一方で、そんな傍若無人に振る舞う人々をみて「あいつらは倫理的に正しくない!だからなんとしても黙らせたい!自分が言っていることのほうが正しいことを証明したい」という一心で、その真逆のことを主張する人たちも増えてくる。

具体的には「次世代のことを考えよう!未来の日本(地球)のことを考えよう」と。

しかし、そうやって掲げたイデオロギーに沿わせて行動することも、意外と倫理的には危ういことだと思っています。

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たとえば、パートナーや家族、地域社会や国家のような共同体のために、人はいくらでも自己奉仕できるようになってしまいます。

その結果、誤った自己犠牲の概念も生まれてくる。

たとえば戦時中の神風特攻隊のように、お国(所属する共同体)のためなら、いくらでも自らを犠牲にできてしまい、それが自らの幸福な姿なのだと勘違いしてしまう。

そして、その自己犠牲をしない人間は「非国民である」と、いとも簡単に共同体から排除してしまう。

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このように、「0か100か」の議論にしないことが、とても大切なことのように思います。

言い換えれば、何かひとつのイデオロギーに安住しない。自分たちの利益と後世の利益の交わる点を、常に疑いながら探り続けること。

「明日死ぬかのように生きよ。永遠に生きるかのように学べ。」という有名な言葉は、この矛盾を矛盾としてちゃんと受け止めて、そんな矛盾の中でも最大限に努めよということでもあるのだと思うのです。

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では、具体的にどうすればいいのでしょうか。

この点ぼくは、自分が受け取ってきた「贈与」に対してまず自覚的になることがとても大切だと思います。

そして、自らが受け取ってしまったこの贈与に対して、少しでも付け加えることができる「何か」がないかを探ってみる。

そして、その何かをプラスして、次世代に再び贈与していく。その循環の中に身を置くことが大切なのだと思います。

つまり、パイプ役に徹してみるのです。

パイプ役と言うと、また自己犠牲のように聞こえるかもしれませんが、パイプになることで自分の中を水(贈与)が通り抜けて行くのだから、こんなにも自らが享受できる立場も他にないのかなと。

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たとえば、古民家や里山なんかは一定期間ひとが住まなくなると一気に荒廃すると言います。

むしろ、住民がいて少しずつ手入れしたほうが長く続きます。その手入れをする住人の立場は、古民家や里山の機能(恩恵)を最大限に享受できる。

でも、やっぱりそれはパイプ役に徹しているからこそ、です。

自らの地点で水を完全にせき止めないようにすること。漏れ出す水のようなものでも、本来は十分すぎるほどに足りるはずなのです。

こんな時期だからこそ、そんな「贈与の循環」に気づかせてくれる空間に身を置くことは、とても大切なことのように思います。