昨日配信したVoicyは、1ヶ月ぶりに最所あさみさんがゲストの回でした。


事前に決めていたテーマは「アンチと批判を分けて考える」を語る、だったにも関わらず、タイトルからはちょっと想像もつかないような話が展開されて、もう本当に驚くほどおもしろかったです。

武道や、何かしらの「道」に対して興味があるひとには、ぜひとも聴いてみて欲しい内容となっています。

特に、多様性やケア的な文脈において、すべてを包摂しようとして文字通りの武道における「真剣勝負」をしなくなってしまったがゆえに、人々の寛容性が失われたのではないか、というお話は目からウロコが落ちるような逆転の発想でした。

戦わないために、武道的な意味において、戦え。戦ったことがあるということが、大きな財産である。

このあたりにまつわる話が衝撃的だったので、ぜひ実際に本編を直接聞いてみてください。

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一方で、今のTwitterは、刃物を持った素人がうろうろしているような状態に見える、と。

ここで思い出すのが向田邦子さんが講演会で語ったという以下の言葉です。

”言葉は恐ろしい。たとえようもなく気持ちを伝えることの出来るのも言葉だが、相手の急所をグサリとさして、生涯許せないと思わせる致命傷を与えるのも、また言葉である”


だからこそ、言葉の「刃」に触れても致命傷にならない稽古場として、武道的な真剣勝負の疑似体験が必要であり、それを文武両道と呼んだわけですよね。

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さて今日は、昨日の対話を終えたあと、僕がふと思い出したお話をご紹介しつつ、改めてあの対談から得られる学びとは一体何だったのかを考えてみたいと思います。

まず、一番最初に思い出したのは、森本あんりさんの著書『反知性主義    アメリカが生んだ「熱病」の正体』で語られていた「剣道はオリンピック競技に取り入れられたほうが良いのではないか」というお話です。

ただ、森本さんによれば、全日本剣道連盟はオリンピックへの参加要請に対して、はっきりと「否」と答えているそうです。

なぜなら、剣道は単なる「勝ち負け」を競うものではなく、人間の内面の美しさや礼節を重んじる武道だから。オリンピック競技になることで、その本質が失われてはならない、というのです。

しかし、森本さんは「ここが肝心なのだ」と続けます。

「剣道は勝ち負けではない」と言い切るためには、日本の剣道は常にトップであり続けなければならない。事実、日本は世界選手権で常勝してきた。そういう常勝の日本が言うからこそ、この言葉には力があるのである。そうでなければ、それはただの負け惜しみにしか聞こえないだろう。


つまり、勝ち負けという土俵とは、「別の価値観」を語るためには、その土俵で負けないだけの圧倒的な強さを持つことも同時に必要である、ということなのだと思います。

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そして、それはひとりひとりの中にある基準、その武道的精神の修養の先にあるもの。

決して、何かグローバルの勝ち負けの基準、それ自体を変えてしまおうという話ではないわけですよね。

「知性とはどこか別の世界から、自分に対する根本的な確信の根拠を得ていなければならない。」と森本あんりさんは書かれていましたが、このあたりの話は、まさに今回の対話の内容と重なる部分があるなと思いました。

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また、武道と言えば、このブログではおなじみの内田樹さん。

内田さんは、武道における「天下無敵」とは、敵をつくらないことだと語っています。

内田さんの『日本辺境論』という本から少し引用してみたい。

「敵」という概念は根源的な矛盾を含んでいます。敵を除去すべく網羅的なリストを作成すると、世界は自分自身を含めてすべてが敵であるという結論に私たちは導かれます。
ですから、武道的な意味での「天下無敵」は、それとは逆にどうやって「敵」を作らないかを工夫することになります。私の敵は私である。私に仇をなすのは私である。私を滅ぼすのは私である。どの伝書にもそう書いてあります。


これは、武道の話をする直前に、最所さんが語られていた「批判してくる相手、つまり敵でさえも、『私』である」というあの話とぴたりと重なる。

あのタイミングで最所さんご自身は、自分の中の引き裂かれからくる戸惑い、そこから橋をかけたいと願う理由や「友と敵」を分けたくない理由、それは「相手も私の一部であるからだ」と語るとき、まだ武道の話をしていなかった。

でも、内田さんの語る武道の天下無敵の話と完璧につながる話をされていたんですよね。

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また、内田樹さんは、別の書籍『凱風館日乗』という本の中において、武道における修行とはその全活動が「ただの通過点」であるような営みだと語られていました。

こちらも昨日の話と深く重なるなと思います。

「修行中に誰かに勝っても負けても、強いとか弱いとかも本来は何の意味もないのだ」と。意味があると思うと、そこに「居着いて」しまう原因になる。

武道の最も大切な教えは、決して「できた」とか「わかった」と思わないこと、おのれを「永遠の初心者」とみなし、ひたすら歩み続けることだと書かれています。

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で、この武道の精神的態度の話が、さらに宗教の精神性とも親和性高い事柄であるという話にも、つながっていきます。

こちらも非常に大事な視点だと感じました。少し本書から直接引用してみたいと思います。

宗教もまた「超越」と向き合うことで連続的な自己刷新を遂げようとする「行」である。いかなる宗教においても、信仰を持つ人は「私は神意を完全に理解した」とか「私は摂理のすべてがわかった」というようなことを口にしない。(中略)
修行者は自分が卑小な存在であることを恥じない。自分が未熟であると感じることをむしろ喜びとする。


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でも現代日本は、その真逆の道を進んでいる。

具体的にはわかりやすく、武道や宗教(特に仏道)の衰退がいま著しいわけです。

この衰退と、今の現状の日本の姿、分断が世の中に広がる様子というのは、決して無関係ではないと僕は思います。

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武道も宗教も、非科学的で不合理であり、もはや自分たちには不要なもの。タイパコスパもまったく見合わない。

だったらもっとラクして稼げる、影響力を得られる、権力を得られる、というものがある。実際そのとおりです。

でも、だからこそ「歯止め」という意味での武道や宗教が、本当の意味で大切だったということだと思うのです。

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特に最近は、葬式仏教の衰退とともに、仏道としての、仏教も同時に衰退してしまっている。

そして、仏教伝来前のアニミズム的な方向に流れることを良しとする傾向もあります。

でも、同時にそうすると、プリミティブな方向にも流れてしまう。それは『地面師』の中で描かれていたような「剥き出しの暴力」なんかも同時に呼び出してしまう。

純粋無垢で単純明快、かつ直感に訴えかけてくるものが勃興してくる。ストリートファイト系のYouTubeやそんなリアリティ・ショー番組が流行る理由なんかも、きっとここにある。

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逆に言えば、そのプリミティブなむき出しの暴力に対しての、歯止め役が武道や道としての宗教だったということなんだと思います。

それを古臭いもの、前時代的だと揶揄して、ぶち壊してきたのが現代人。

でも、それは完全にいつか来た道でもあるわけですよね。

人類は、何回これを往復するんだろう?すでに尊ばれてきているものの中に、先人たちが自分たちの失敗をもとに準備してくれた歯止めが、内包されてあるのに、です。

また懲りずに大きな戦争のような手痛い失敗を繰り返して、再発見されることを待つしかないのかと思うと非常に絶望的な気持ちになってしまいます。

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じゃあ、なぜ最所さんはそれを持ち合わせていることができているのか。言い換えると、現代人が置いてきたもの、忘れてきたもの、をなぜ未だにしっかりと内包しているのか。

それは、最所さんのご出身である九州コミュニティの教育の「型」に規定されている部分が非常に大きいのだと思います。

ご本人も実際にそうやっておっしゃっているし、僕もお話を聞かせてもらえると本当にそう思うことが多い。


こちらの事実も、僕はまた本当に興味深いなと思う。

最所さんからお話を伺っていると、九州文化の重層性に本当に感動してしまいます。

学校教育もそうですし、昨日のVoicyの中で「真剣勝負」を諭してくれた剣道の先生の話なんかも、まさにそう。

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それは、やっぱり長い歴史を持つ地域特有の、なおかつ自分たちのアイデンティティに対してしっかりと「誇り」を持っている地域だからこそ為せる技なんだろうなあと。

「自分たちは、関東とも関西とも違う、それ以上の長い歴史を持つ九州である」という自覚が、未だにそのような「型」を手放さずにいられている理由でもあるかと思います。

それを「さす九」という言葉で、古めかしい・保守的であると、揶揄する現代の風潮は本当によろしくないなと思う。

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この点、僕の地元である北海道が大自然を活かした「素朴」だとしたら、ものすごく丁寧に織り上げられた「洗練」がそこにはある。

それはなんというか、東京で育った人間が初めて京都に行ったときの感覚、そのときに感じるコンプレックスにとてもよく似ている。

東京には、実はバラックやハリボテしか存在しなかったんだ、と思い知らされるあの感覚に非常に近い。

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長い歴史の流れの中で磨かれてきた「歯止め」も含んだ洗練と、大自然と向き合う中でアニミズム的な感覚から立ち現れるプリミティブな「素朴」。

どちらも、等しく人類に必要なものなんだろうなとは思います。

そしてその別々の背景を持ち合わせている相手、自分には通ってきていない「道」を通ってきている相手だからこそ、新たな学びも得られる。

そして、そういう自分にはない視点を相手があたりまえのように語ってくれるから、自分の「道」を再認識する契機にもなる。まさに灯台下暗し。自己に内在しているものを自覚する瞬間です。

このときに初めて、お互いに尊重し合える関係性を構築できるなと思います。

自分には持ち合わせていなくても、共鳴する感覚を持つことができて、目の前の相手もまた「私」だと思えるから。

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この感覚が、今とても大事だなと思うのです。このときに、本当の意味で「調和的感覚」が立ちあらわれてくるのだと思います。

真善美における、美の感覚。まさに、曼荼羅がそこに描かれる。

Wasei Salonは、このような気付きや発見が得られる空間として引き続き継続していきたいなあと思いますし、Voicyのゲスト回においても、そんな対話を引き続き音声で届けていきたいなと思っています。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。