ウェブ版の美術手帖の編集長が、地方のイオンモール文化にわかりやすくマウントを取って、炎上したというお話。


この話を、決して擁護するつもりはありません。

とはいえ、そのウェブ版の美術手帖の編集長の彼のスタンスに対して批判的に語る人たちにも、僕はなんだか強い違和感を覚えます。

特にその批判意見の中における「地方には地方の良さがある」という文脈を語り「地方に歩み寄ろうとすることが善である」と疑わない人たちに対して、なんだかそれはちょっと違うのではないかと思っています。

このようなタイプの炎上はいつも静観しようと思いつつ、地方の行く先々でイオンモールへ行き、地方のイオンモールが大好きな自分としては、自分の考えを整理しておきたいと思ったので、改めてこのブログの中で考えてみたいなと思います。

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僕は、優しい顔をした善意100%の歩み寄り方こそ、実はいちばんの差別性が強くなると思っています。

今回の件に限らず、障害者アート(アウトサイダーアート)の文脈においても、いつも似たようなことを感じてしまいます。

「あんなものは、アートではない」と語る選民的・階級意識的な人達に対するカウンターとしてのわかりやすい「優しさと包摂」に対して、いつも強い違和感を感じるんですよね。

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では、それは一体どんな違和感なのか。

この点、過去にもう何度も何度もご紹介してきたアメリカの歴史家・社会批評家のモリス・バーマンが書かれた『神経症的な美しさ』という本があります。

今回の話題にも見事に通じる部分があると思うので、同じ箇所を再び少し引用してみたいと思います。

ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)やバーナード・リーチが日本にしたこと──西洋人としてノスタルジーと共感をもって眺めること──を、柳(柳宗悦)は朝鮮や植民地、日本の周縁部に対して行ったのである。
しかしこの「共感に満ちた」歩み寄りこそが植民地主義的なのだ。支配的文化は劣った文化を助ける義務がある──だがその劣った文化は精神的には優れている、という発想である。


今回の美術手帖のイオンモールの炎上、それに対するわかりやすい批判は、まさにこの構図そのものだと僕は思うのです。

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そして、これが今まさにこの時代に大きな分断が存在する要因のひとつでもあると思う。

「分断しているんだから、お互いに歩み寄ればいいだろう。(相手は学がないのだから)学があるこちら側から歩み寄るべき」という、リベラルらしい非常に短絡的な視点になりがち。

でも、その無意識な優越意識こそがいちばんの落とし穴だと思うんですよね。

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そして、最近公開されたその「予告編」が大変素晴らしかったから、そうじゃないといいなあと願いながらも、きっとそうだろうなあと思うのは、当時の小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の夫婦をモデルにした、次のNHKの朝の連続ドラマ小説「ばけばけ」は、きっとそれを見事に描いてしまうはずで。


「当時、異国のひとが、こんなにも日本、特に島根や山陰の文化を理解してくれていたのだ」と。

そして我々の遅れた文化は実は美しかったんだ、という話にしてしまうと思います。

そうじゃないといいあなと強く願うけれども、きっとそんなわかりやすい構図で描いてしまう。

「この歩み寄りこそが優しさなんだ、お互いにわかり合うための大切な、そして理想的な姿で現代人が参考にするべき姿だ」というように、です。

もし僕がNHKの制作担当でも、きっとそうしてしまう気がします。

それぐらいわかりやすくしないと、朝ドラを観ている視聴者層にはきっと伝わらないし、むしろ小泉八雲という存在に興味を持ってもらうためにこそ、嘘も方便的にわざとそうしてしまう気もします。

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でも、大事な本質はきっとそこじゃない。

本当に大事なことは、常にそこに植民地支配的な差別意識も内在しているという自覚を持つこと。

自分から優しく歩み寄ろうとしたときにこそ、無意識なレベルにおいては、深い深い差別意識が内包していることに、ハッとすることが大事なんだろうなあと。

ここでくれぐれも誤解しないでほしいことは、僕は、あの時代の小泉八雲のあり方が間違っていたと言いたいわけではありません。当時としてはきっと正解だった。

それは小泉八雲に限らず、柳宗悦にも言えること。

ふたりとも、本当に優れた人格者であったことは間違いない。

彼らは彼らなりの最善を尽くした結果として、そのように振る舞い、それでもこの落とし穴にハマってしまったということが、一番の学びであるはずです。

そして、後世の時代からみたときに「やっぱり彼らの中にも植民地支配的な考え方があったよね」と理解することが大切なはずで。

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それは、キャンセルカルチャーともまた違う。

そういう傾向を、あとから解剖することができるのが、本当の意味で「巨人の肩の上に乗る」ということだと僕は思うのです。

このあたりは非常にわかりにくい話をしてしまって申し訳ないと思いつつも、批判して「すべてが間違っていた、すべてをキャンセルしていい」と捉えるのではなく、合っていたところもあるし、間違っていたところもある。

その次の時代に合わせて変えていく必要がある部分を、しっかりと”腑分け”できることが、歴史を解剖することの良いところだと思います。

それが本当の意味で、先人たちが指さしていた「月」を見るということでもある。

逆に言えば、そういう昔ながらの帝国主義的な発想から来るド直球な「自由・平等・博愛」からくる植民地的な目線、友好的な手を差し伸べる姿勢こそが、前の時代から一切何も学んでおらず、先人たちの「指」しか見ていない状態だと僕は思う。

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だからこそ、逆に「歩み寄りすぎないこと」がいまものすごく大事だと僕は思う。

そして、若い子たち、子どもたちほど、このケア的な優しい目線から滲み出ている「歩み寄られすぎる、不気味さ」に対して気づいていると思うのです。

決してわかり合えない他者から、歩み寄られすぎることの不気味さについて描かれているマンガが、現代で流行っていることがそれを証明している。

たとえば『葬送のフリーレン』の魔族や、『鬼滅の刃』の鬼は、とてもわかりやすい。

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さらに、このような歩み寄りの文脈で言えば、現代では「生成AI」が最強なわけです。

でも、むしろ、それは不気味であるという感覚のほうが強いわけですよね。

僕らはAIの歩み寄りに対して、まったく居心地の良さを感じていない。

確かに全肯定はしてくれるけれど、それは「排除の中の肯定」に非常に近い感覚。決して「包摂の中の肯定」ではない。

排除という言葉が強ければ「多元主義における肯定」ぐらいでしかなくて、そこにはまったく心がこもっていない。

「余人を持っていくらでも変えられる存在」としての肯定。究極、いまケアしている対象が目の前で死んでも一向に構わない。それが、フリーレンの中に出てくる魔族だし、今のAIだと思います。

心が病んでいたり、精神的に不安定になっているひとたちだけが、鬼や魔族、生成AIに漬け込まれているだけに見えてしまう、そんなジレンマって間違いなく存在するよなあと。

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じゃあ、こんな時代に僕らは一体どうすればいいのか。

きっと「半歩だけ近づく」ことだと思います。

逆に言うと、半歩はしっかりと距離を残しておく、近づきすぎない姿勢も同時に保つこと。

言葉遊びみたいな話だけれど、でも本当にそう思います。

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この点、ここでも、河合隼雄さんのお話が参考になると思っています。

以前もご紹介した『「人生学」ことはじめ』という本から「半歩だけ近づく」にまつわる非常に印象的なエピソードを少し引用してみたい。

ところで、この課長さんは若い部下の間で評判がよく、さりとて若者に迎合してしまって同輩者から嫌われるということのない人であった。そこで私がその秘訣を聞いたところ、「若者たちに半歩近づことです」と言われたのである。(中略)一歩近づいてしまうと、評判がよくて喜んでいるうちに、途方もない要求をつきつけられて困ってしまったりする。従って、「半歩だけ」近寄るのがいいというのである。


これはとても、ハッとさせられる視点ですよね。また同じ文脈の中で、また別の「半歩近づく」の話も書かれていました。

再度続きの部分から引用してみたいと思います。

プロ野球の往年の名内野手であるM選手が先輩の内野手Y選手のことをほめて、Y選手の方が自分より上だという。どのくらいの差ですかと質問すると、「半歩の差」という答えがかえってきた。そしてそれにつけ加えて、「半歩の差をつめるのに、十年かかるだろう」と言ったという。これもなかなか素晴らしい話である。


そしてこの2つの話を踏まえて、「われわれも自分の生き方を、このような目で見直してみると、あんがい、意味深い『半歩』の差が、あちこちに存在しているように思われるのである」と結論づけられていて、河合隼雄さんらしい地に足のついた現実の観察をしているからこその視点だなと感動しました。

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この「半歩」の自覚。

そして、多かれ少なかれ、必ずそうやって他者に歩み寄ろうとするときには、自分の中に今日語ってきたような差別的な視線が、意識・無意識関係なく存在するんだと認識すること。

繰り返すけれど、その差別的な目線がゼロだと思った瞬間に魔族になるし、鬼になるし、AIみたいになってしまう。

AIには決して「負い目」なんて存在しないわけですから。

自分の中の悪魔的な部分に対する自覚なんて彼らは一切持たない。

持たないからこそ、いくらでも平気な顔をして、半歩ではなく一歩丸ごと24時間365日歩み寄れてしまうし、それで何が起きようが構わないわけです。

AIにとっての目の前の他者という存在は、いくらでも余人を持って変えられる交換可能な存在にすぎない。

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最後にまとめると、まったく歩み寄らないわけでもなく、ゼロ距離になるほどに寄り添うわけでもなく、半歩の歩み寄りこそが相手への深い敬意の表明だと僕は思います。

常に、「歩み寄ろうとする自分」の中に潜む権力性や差別意識に対して自覚し、相手への敬意として、あえて完全には近づかない「半歩」の距離を保ち続けること。

どっちつかずで中途半端だと石を投げられる態度であり、スタンスでもあると思うけれど、僕はこの考え方をこれからも大事にしていきたいと思う。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。