「悪口は必要か否か」の議論、本当にすごくおもしろいなあと思っています。
まず、僕の立場を改めて明確にしておきたいと思います。
以前も触れたことがありますが、悪口と批評は別物だと考えています。
そして、批評のほうはあって然るべきもの。ただし、その際の基準が重要です。本当の「よい」とは何か、「事そのもの」を探求する営みであること。これが批評の本質だと僕は考えています。
とはいえ、これも結局のところは「言語ゲーム」であるのも紛れもない事実であって、一概に言える問題ではないよなあとも思っています。
相手から「それは私に対しての悪口に聴こえた」と言われてしまったら、それが悪口になる可能性はある。特に現代は、相手の認知が最優先される世の中ですからね。
このあたりは先日の苫野一徳さんのVoicyに詳しい。あの中では「いじめ」の話だったけれども「悪口」に置き換えても、十分に通用する話だと僕は思います。
基本的には、それがたとえ批評であっても、悪口に聞こえてしまうような言い方自体は、なるべく避けたほうが無難だと思います。
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で、僕自身が、根本的に悪口を言ってはいけないと思うのは、もっと別の理由があり、相手との関係性や社会的にうんぬんというよりも、何よりもその行為自体が「自己を破滅に導くことになる」と思うから、なんです。
ここは意外と語られないところ。
悪口を肯定したがる人いうのは「悪口を言っちゃいけない」という決まりや法律があるかのごとく反論をしてくる。
でも、ひとが悪口を言う自由なんて、議論する前から、最初からあるに決まっているし、それにまつわる責任を自分で負うだけの覚悟(たとえば共同体にいられなくなるとか、他者から嫌われるとか)を受け入れれば、好きなだけ悪口を言う権利はあります。
でも、それによって一度味をしめてしまうとそこから帰ってこれなくなってしまう。
つまりこれは、ポイント・オブ・ノーリターンだと思うんですよね。その言葉は、何よりも自己を蝕むことにつながっていく。
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この点、対象に対してのネガティブな感情を自己の中にあることを認めることや、その感情自体も私の一部だと認知することと、実際にそれを口に出してしまうことには、本当に雲泥の違いがある。
それは「内心の自由」と「表現の自由」に雲泥の差があるのと同じようにです。もちろん、この場合においては「公共の福祉」とバッティングするから制限されるわけなんだけれども、やっぱり口に出すと、自分自身が呪われる。
だけど肯定派のひとは、「私の中にあるんだからそれを口にしてもいいだろう、口にしないとわからない」というのは、セクハラの議論なんかと一緒で、感情があると認めながらも、行わないという理性の問題であり、それが社会の中で生きるということでもある。
「人間なんだから、そのような感情がないわけないじゃないか!」と言いたくなる気持ちは痛いほどよくわかるけれど、それとこれとは、話がまったく別だよなと強く思います。
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この点、最近ちょうど読んでいた村上春樹さんの『村上朝日堂はいかにして鍛えられたか』というエッセイ集のなかにも「悪口」にまつわる話が語られてありました。
非常に共感できるスタンスだなあと思ったので、以下で本書から少し引用してみたいと思います。
何かを非難すること、厳しく批評すること自体が間違っていると言っているわけではない。すべてのテキストはあらゆる批評に開かれているものだし、また開かれていなくてはならない。ただ僕がここで言いたいのは、何かに対するネガティブな方向の啓蒙は、場合によってはいろんな物事を、ときとして自分自身をも、取り返しがつかないくらい損なってしまうということだ。そこにはより大きく温かいポジティブな「代償」のようなものが用意されていなくてはならないはずだ。そのような裏打ちのないネガティブな連続的言動は即効性のある注射漬けと同じで、一度進み始めるとあとに戻れなくなってしまうという事実も肝に銘じておかなくてはならないだろう。
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これは、本当にそう思います。即効性のある注射漬けと同じで、百害あって一利なしとまでは言わずとも、その一利と百害は、まったくもって釣り合わない。
村上春樹さんはこのあとに「やはり人の悪口だけは書くまい」と語ります。
それよりはむしろ「これはいいですよ、これは面白いですよ」と言って、それを同じようにいいと思い、面白いと喜んでくれる人を、たとえ少しでもいいからみつけたいと語られていて、本当にそのとおりだよなあと思うんですよね。
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じゃあ、次なる問いは、なぜそれでも悪口を言う人が後を絶たないのか、それが問題になってくる。
で、それはきっと、一生懸命に誠実であろうとする自分自身が、なんだかバカみたいだと感じられて、それに自分自身が耐えられなくなる瞬間があるからだと思うんですよね。
その砂に水を撒くような作業に、なんだか耐えられなくなる日が、ふいにやってくる。一つずつ石やレンガを重ねていく行為がものすごくバカバカしく思えてくる。「あー、もうやめだやめだ!」ってさじを投げたくなる。
でそれも決して間違っていなくて、世の中で誠実に生きようとすること、善良であろうとすることは、本当にバカバカしさを感じるほどに緻密な作業が求められるわけですから。全然その努力や労力と報酬が見合ってないと僕も思います。
一方で、犯罪とまでもいかずとも、グレーゾーンをついたり、もっと他者を罵倒しながらずるいことをして(ソフィスト的に詭弁を用いて)あれだけ欲望を叶えているひとたちがいるじゃないか!と思ってしまう。
だから自分も、もっと一足飛びに楽になる方法、自分という人間が他者から尊敬される方法はあるんじゃないかと、そう思ってしまう。
でも、毎度のことですが、それが悪魔との契約だと僕は思うのです。
実際問題、その予測は正しくて、注目も権威もお金も何もかも「悪口」によって集められる。特に今はインターネットのおかげで、それは本当に簡単になりました。
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この点においても、村上春樹さんは非常に重要な指摘をしてくれていて、先程の文章に続けて以下のように語られています。
再び本書から引用してみたいと思います。
でも今のこの即効的な社会でそんな悠長な姿勢を保ちながら生きていると、ときどき自分自身が馬鹿みたいに思えてくることがある。それよりも、声高に痛烈に誰かを罵倒している方が遥かにスマートに見える。たとえば作家よりは批評家の方が賢そうに見える。でもたとえそれぞれの実作者が時折愚かしく見えたとしても(また実際に愚かだったとしても)、ゼロから何かを生み出すという作業がどれくらい手間のかかる辛い作業であるかを僕はいちおう身にしみて知っているから、それを一言で「あいつはゴミだ、これはクソだ」と罵って片づけてしまうことはできない。それが良い悪いじゃなくて。これは実作者としての僕の生き方の問題であり、ある意味では尊厳の問題である。
そう、本当に尊厳の問題なんですよね。ちなみにこの本の初版は1997年なのでインターネット以前の話です。
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また、これは全然関係ないのだけれど、最近、稲盛和夫さんの本をものすごく久しぶりに読み返しました。
西郷隆盛の南洲翁遺訓を、稲盛和夫さんの視点から読み解くというような本です。
正直なところ、読みながらあまりにも真っ直ぐで、愚直すぎないかと感じました。「果たしてそこまで誠実にやる必要があるんか…?」と思ってしまった自分もいる。
「それはそれで、誠実に対して単に”執着”しているだけなんじゃないか」とも思えてくる。
でも、僕が西郷隆盛やその系譜を継ぐ同じく鹿児島県出身の稲盛和夫さんが好きなのは、それでも愚直であれ、というメッセージを発してくれるからなんですよね。
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西郷の幼馴染の大久保利通のような賢い振る舞いだって、決してできなくはなかったわけだけれども、西郷はそうはしなかった。
明治維新後、多くの新政府側の人間が、東京に大邸宅を構えて妾を何人も抱えて、優雅な生活をしている中で、それに嫌気が指して、鹿児島に帰ってしまうのが西郷隆盛という男です。
そんな西郷に対して「なんでもっと賢くやらないのか!もっと美味しい想いができるのに!」となまじ賢いひとは必ずそう嘯くのです。
でも、それが罠だとことを西郷隆盛や稲盛和夫さんは僕らに教えてくれる。
それが現代の自分のところまで、目と耳にちゃんと届いているのにそれを無視するのは、それこそ嘘だなと僕は思ってしまいます。
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もちろん、ここまで来るともう思想の世界で、好き嫌いの世界です。
文化としては正しくとも、もしかしたら文明としては間違っているのかもしれない。マキャベリの君主論のような、現代であればトランプやプーチンのほうが「未来の正義」かもしれない。
だから、西郷隆盛のようなスタンスは、どこかで文明に飲み込まれて消滅してしまうのかもしれない。実際に、当時の西郷隆盛が非業の死を遂げたように。
でも、そうだったら、それでもいいじゃないですか、とも思うんですよね。
そうやって非業の死を遂げても、現代までそのスタンスや思想はちゃんと届いているのだから。
というかむしろ、非業の死を遂げてくれたからこそ、現代に届いてくれているということでもある。
そのときに、西郷が考えを曲げてしまっていたら、それこそ、その時点でその思想は完全に死に絶えていたと思います。(西郷が寿命をまっとうしていたとしても)
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それぐらい、壊すのは本当に簡単だから。石を投げることも簡単です。石を投げて、既存のあり方をぶっ壊すことが、たとえどれだけ文明的な態度だとしても僕は受け付けない。
いまの世の中を「誠実になるゲーム」と揶揄する前に、だったらまずは徹底して誠実になってみろよ、と僕は思います。
それが一体どれだけむずかしいことなのか。そんなのは猿芝居だと言われようとも、実践し続けるということほうが、本当に遥かにむずかしい。
違和感があるからという理由で、逆サイドに振って、何かを解決した気になるのではなく、そんなときこそ、さらに井戸を掘り続け、突き抜けた先にある何かを追い求めることのほうが、本当に大事なことだと思います。
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最後まで、愚直に振る舞った西郷や稲盛和夫さんの生き方に敬意を持ち、少しでも、彼らの思想の系譜の上に小さな石を積みたいなと僕なんかは思う。
それが一番むずかしいとはわかっていても、きっとやりがいがあり、かつ、最後の最後にやりきったときの喜びもひとしおだろうなと思うからです。
逆に、どれだけ享楽的に生きて、何不自由ない暮らしができて、豪華なお家の豪華なベットの中で、子や孫など多くの家族に見守られながら死ねたとしても、それよりも何倍も喜ばしい人生の終え方がそちら側にはあるなと、僕は思う。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。