最近、よく思うのですが、言葉の持つ「意味」や「概念」にこだわり、その用いられ方のズレに違和感を感じやすい人は、シニフィアンとシニフィエの距離が、非常に近いひとなんだろうなあと感じます。
たとえば、アラサー男子が悩みがちな配偶者を何と呼ぶか問題なんかは、非常にわかりやすい。
具体的には、嫁さんと呼ぶのか、それとも妻と呼ぶのか、などです。
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なぜ、そのようなことでいちいち悩む必要があるのか、僕はいつも本当に不思議でしょうがない。
なぜなら、そんなのは言葉が使われるときの「文脈」に寄るだろうと思うからです。
つまり、言葉や単語だけで考えてみても、ほとんど意味がない。
じゃあなぜ、今のアラサー男子たちが、それを意識せざるを得ない状態になっているのかといえば、断片的なテキストコミュニケーションが主流になってしまった、その弊害でもあるのだと思います。
文脈を共有していない状態で、言葉だけを他者に判断されてしまったら、そこで言葉の「意味」や「概念」を過度に重視するひとたちから揚げ足を取られてしまって、ハレーションが起きてくるのは必定だから。
これは、SNSが社会の中心に躍り出てきて、「社会的な文脈」という前提やコンテキスト自体も、コミュニティごとにバラバラになってしまったことも原因であり、思わぬところから現れた弊害なのだと思います。
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ゆえに、言葉をシニフィアンとして用いているのか、シニフィエとして用いているのか、それを意識することは、今かなり大切なことだと僕は思うんですよね。
ちなみに、ここで言う、シニフィアンとは「言葉そのもの」や「音の連なり」を指し、シニフィエとは、その言葉が指し示す「意味」や「概念」を指します。
ChatGPTに「中学生にもわかりやすく説明して」と頼んでみたところ、以下のような回答をしてくれました。
想像してみてください。あなたが「りんご」という言葉を聞いたとき、頭に浮かぶのは、実際のりんごの形や色、味などのイメージですよね。この場合、「りんご」という言葉自体が「シニフィアン」で、その言葉が指し示す実際のりんごのイメージや概念が「シニフィエ」です。
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で、たとえば、これは極端な話ですが、健男と書いて「たけお」という名前の人間がいたと仮定します。
そのひとは、病弱であまり男らしくないタイプの人間だった場合、「どう考えても健男じゃない」と思って、その“生命体”の名前の呼び方をいちいち変えようとするのでしょうか。
たしかに、親が意図したのは「健やかで男らしく育って欲しい」という願いや祈りみたいなものが込められていて、ゆえにその名前がつけられたのかもしれない。
でも、僕らは「健男」という漢字と「たけお」という音で、その生命体のことを「たけお」と認識(区別)し続けるわけですよね。
そのときにいちいち「あいつは全然健やかじゃないし、男らしいことも嫌がるのに、私はあのひとのことを『健男』と呼び続けても果たして良いのだろうか…」なんて悩まない。(もちろん、本人が名前を変えたら別ですが)
そんなことを本気で悩んでいるひとがいたとしたら、「おいおい、大丈夫か、あれはただの名前だ、ラベルにすぎない」と伝えるはずなんです。
そう言えるのは、健男という字面(たけおという音)は、目の前に存在している人間を区別するラベルとして考えているからですよね。
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さて、今日の話に関連して、以前もご紹介したことのある魚川祐司さんと、僧侶のプラユキ・ナラテボーさんの対談本である『悟らなくたって、いいじゃないか』という本の中に非常に、おもしろい話が語られてありました。
それは何かと言えば「ラベリング瞑想をすることで、むしろ逆効果をもたらしてしまうひとたちがいる」という話です。
今日の話を気づくきっかけにもなったので、本書から少し引用してみたいと思います。
なぜ問題が生じてしまうのかというと、一般に私たちにとって言葉というのが、単なる記号表現である「シニフィアン」(〝ネ・コ〟という音の連鎖や文字の集まり)としてだけではなくて、記号内容であるところの「シニフィエ」(〝ネコ〟という音声や文字から浮かぶイメージや概念)と分かち難く結びついた、「シーニュ(記号)」(シニフィアンとシニフィエの複合体)として用いられるものだからです。
つまり、多くの人にとって、シニフィアンは発話された時点でシニフィエを巻き込んで認知されるわけですね。例えば、「怒り」というシニフィアンを「ラベル」として心の中でも発話すれば、同時に腹立たしい感情にまつわる記憶イメージといったようなシニフィエが、喚起されることは自然であるわけです。そうすると、怒りに囚われたくないからラベリング瞑想をしているのに、「怒り、怒り」と心の中で繰り返せば繰り返すほど、ますます憎悪の感情や立腹した記憶などが、心に満ちてくることも起こり得る。
このプラユキ・ナラテボーさんの発言に対して魚川さんは、私たちが生きている「現実」という物語の世界において、シニフィアン(「たかが言葉」)とシニフィエ(「されど言葉」)は不可分ですからね、とおっしゃっていました。
まさにこの、たかが言葉と、されど言葉のぶつかり合いなのだと思います。
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シニフィアンを想像したときに、シニフィエを想起してしまうひとたちが一定数存在してる。
それらが表裏一体どころか、もはやそれは混合されていて、分離できるとさえ思っていないひとたちがいるということです。
もしくは、頭ではそれが理解できていても、どうしても同時に想起してしまうひとがいる。あとは何かイデオロギー的に「分離して考えることは、いけないことだ!」と思い込んでしまっているひとたちもいる。
だから、言葉の意味するところだけを、過度に重視してしまうのでしょう。
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それ自体は、本人の自由選択の問題だから、本当に好きにすればいいと思います。
ただ、少なくとも僕は、言葉にはシニフィアンとシニフィエがあるということ自体は、誰もが理解したほうが良いと思う。
さもないと、「されど言葉」だと常に思い込み、それを用いるたびに、その感情も想起することによって自らが辛い思いをしてしまうだけだから。
言葉を用いて、対象を明確に他のものと区別できればいいだけの場面があるにも関わらず、わざわざ自分でイメージまでも同時に引っ張り出してきて、それとのギャップに辛くなってしまっている。
もちろん、ネガティブな言葉などは安易に口にしないほうがいいとは思うけれど、ただあまりにも、言霊信仰を純粋無垢に信奉しすぎるのも、それはそれで問題な気がします。
目の前の人間がそれをシニフィアン、つまりコミュニケーションをするために意思疎通をするうえで対象を限定するために使っているラベルとしての言葉にもかかわらず、そこに毎回シニフィエの概念持ち出してきても、コミュニケーションがその都度断絶するだけです。
コミュニケーションのマナーとしても、それは完全に不適切だと思います。
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この点、養老孟司さんがよく語られている、中学生で「数学」を習い始めた瞬間に躓く子の特徴の話も、ここにつながっているのかなと思います。
中学生で数学を習い始めたとき、「A=B」が受け入れられない子が一定数存在すると養老さんはよく言及します。
なぜなら、「AとBはイコールじゃないじゃないか!」、「A=A、B=Bは理解できるけれど、なぜA=Bになるんだ!」と。
これは僕も指摘されるまではまったく気になりませんが、確かに言われてみると何がその子達にとって気持ち悪いのかは、なんとなく察知できる。
そこで躓いてしまい、その先の学習に進めない状態に陥る子が一定数は必ずいるそうです。この話とも、とてもよく似ている話だなと思います。
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でも、変な話なんですが、そもそも「同じ」という概念は、それらが根本的に違うものだから、成立する用語でもある。(ものすごく感覚的に違和感があり、気持ち悪いかもしれない話をしている自覚はある)
言い換えると、「違うもの」を「同じもの」だと発見させる、思い込ませる、それが言葉の魔力でもあり、想像力でもある。
この構造自体を、まずはちゃんと認識したい。
「あのバラと、このバラは同じだ」とか「あのキツネと、このキツネは同じだ」といった「同じ」を主張する言葉というのは、そもそもあのバラとこのバラ、そしてあのキツネとこのキツネがまったく別物ものだからこそ、成立する言葉なんですよね。
サン=テグジュペリの『星の王子様』は、そのような思い込みを僕らにちゃんと教えてくれている。だから大人が読んでも面白い児童文学なんです。
「昨日の私と、今日の私は同一人物だ」とかもそう。それらは根本的に違う人間だからこそ、意識が言葉を用いて、同一性を主張しているだけ、なんですよね。
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話をもとに戻すと、目の前のひとが、ただのラベルとしてその言葉を用いたのか、それとも概念も込みで、または殊更「概念」を強調したくて用いたのか、そこをごっちゃにしてしまっている人が、現代にはあまりにも多い。
そのことに気がつき、摘することが、まるで賢いことかのように、です。
でも、その無意識の用法が「悪意」だと言い始めたら本当にキリがない。
何度も繰り返すけれど、自分が言葉選びをする際に、意識すること自体は好きにすれば良いと思います。それは個々人の美学の問題。
でもそれを他人に押し付けない、言葉狩りをしても仕方ない。相手は「シニフィアン」としてしか、その言葉を用いていない場合が大半なのだから。
シニフィアンとして用いているだけなのに、「嫁さん」と呼んだ時点で「このひとは未だに男尊女卑の観念を抱え込んでいる…!」と認定することは、それこそが逆に、攻撃性をはらんでいるというか、ハラスメントになりかねない。
それをいちいち指摘し続けていると、そんなひととはコミュニケーションを取りたくないと思われても仕方ないと思います。単に、ただの揚げ足取りにすぎないわけだから。
その指摘は、しりとりにおいて「はい、『ん』がついたー!」みたいなものでしかない。僕らは別に、普段の会話の中でしりとりをしているわけじゃない。
むしろ、そのような言動が本来一番求めているはずのコミュニケーションから、一番遠のいてしまうような気がしています。
本当のコミュニケーションの目的に対して、常に忠実でありたいものです。そのためには単語の意味性なんかよりも、文脈理解のほうがよっぽど重要なことだと僕は思います。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、何かしらの考えるきっかけとなったら幸いです。