先週末、映画館で『もののけ姫』を観てきました。

「おまえにサンが救えるか。」

日本人なら誰もが一度は聴いたことがある有名なモロ(美輪明宏さん)のセリフです。

この質問に対するアシタカの答えが、とても印象的でした。

「わからぬ、でも共に生きることはできる。」

今こそ、このアシタカのセリフは考えてみたい言葉だなあと思ったのです。

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「救えるか否か」という問いって、一見するとものすごく正しように思えます。

特に「王子様が、お姫様を救えるか」という場面においては、もう鉄板すぎる展開ですよね。

そして、責任感が強く優しい人間ほど、他者を救おうとその重荷を背負ってしまいがち。

しかし、そんな簡単に他者なんて救えるものではない。

そして、自分には相手を救えないことがわかると、その自分の実力のなさに絶望してしまいます…。

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一方で、「あなたを救ってみせる」と言われた側も不幸です。

「そうか、私は救ってもらえるんだ」と期待して相手に歩み寄ってみるものの、実際には救ってもらえないとわかったタイミングで、相手に裏切られたように感じてしまい、相手を憎み、そして世界を恨むようになってしまう…。

だからこそ、そもそも「他者を救う」や「他者に救われる」という概念自体が間違っているのかもしれないなと。


それは誰にもわからないこと。

とても残酷に聞こえるかもしれないけれど、僕は他者を救おうなんて思わないですし、他者に救われるとも思っていない。

自分を救えるのは、この世で自分だけしか存在しないと信じています。

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しかし、他者と共に生きることはできる。

共に考え、共に協力し合い、共に行動することはできる。

「変化に対応したものだけが生き残る」という言葉が昨今の社会情勢を背景に、いろいろな場面で語られてしまっていますが、

僕は変化に対応した者よりも「他者と協力し、共に生きると決意したものだけが生き残る」と思っています。

この点、以前もツイートしたように、中国人の行動はとてもわかりやすく、中国人は家族をものすごく大切にします。

https://twitter.com/hirofumi21/status/1274136074621644800?s=20

利害関係を超えて、文字通りどんな国家や社会構造になろうとも、「家族と共に生きること」を決意し、共に協力し合っていこうと決心している現れなんだと思います。

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さて、もののけ姫の話に戻ると、アシタカとサンは最終的にお互いが別々の場所に住むことを決意します。

そしてアシタカは、また会いに行くことをサンに約束し、物語は終わる。

これは、たとえ住む場所が異なったとしても「共に生きている」という感覚は得ることができるというジブリからのメッセージなのだと思います。

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「他者を救える」という人間の優しさや責任感が、自分の能力を誤認して、そこから「驕り」を生み出し、階級組織や支配構造まで生み出してしまう。

だからこそ、このWasei Salonでも「救えるか否か」「救われるか否か」というタテの関係ではなく、「共に生きる」という感覚をメンバー同士で互いに共有し合いながら、ヨコの関係を構築していきたい。

いつもこのブログを読んでくださっている方々にとっても今日のお話が何かしらの参考となったら幸いです。