他者が真剣に向き合って考えていることに対して、ひとはなぜ笑うのか。

この問いに対して、若いころの僕は、相手よりも詳しくその事象に対して理解をし、その事象について深く精通しているから、その高みの境地から相手を笑っているんだと思っていました。

でも本当はその真逆で、わからないからこそ、うさんくさいとか、バカバカしいとか言いながら笑っていられる。

でも、こういう状況に自らが置かれたときに、真面目なひとほど、このひとたちは私とまったく同じ景色が見えていて、さらにそこにプラスアルファの何かを知っていて、そのうえで嘲笑しているのだと、誤解をしてしまう。

未来の不確実性、自分の中でのその確信の持てなさがきっと、そう思わせてしまうのでしょうね。

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自分がどれだけ本気で取り組んでいることであっても、大体の事柄は、8割の確信と2割の不安があり、その2割の不安の部分があるからそう思わせてしまうわけです。そのような幻想をいだいてしまうことは、むしろ非常に健全でヘルシーなことだと思います。

でも、そんなときこそ、それは幻想だと気がついて、自分が確信した道をしっかりと歩めるかどうかが非常に重要になってくる。

このことの重要性に気がつくまでに、僕はかなりの時間がかかってしまいました。

もちろん、この考え方が極端に加速していくと、陰謀論などにもハマってしまうため、注意は必要なんだけれども、常に他者の意見に開かれている態度と、このようなスタンスは間違いなく両立できるかと思います。

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この点、世の中の大多数のひとは、自らが見えていないものに対して簡単に笑い、そしてバカにするというムーブを取りがちです。

僕には、まったくそうする理由みたいなものが理解できないけれど、そうするひとは本当に多いです。

このタイプのひとたちが世間で一体なぜそうするのかと考えてみると、自らの中に否定できるロジックや根拠があるわけでもなくて、周囲が笑っているから、自分も場のノリや空気に流されるままに、笑うんだと思うんです。

そして、それを見て、他のひとも笑っているから、私も笑って大丈夫なのだと思って、ドンドン人々が同時多発的に同調をしていく。

そうすると、その中で誰一人として、何の根拠も確信もなかったのに、バカにしてもいいものだという「空気」になっていくんですよね、不思議なことに。

これは、いわゆる正常性バイアスみたいなものです。

真後ろから津波が今まさに襲ってきているのに、まわりが歩いているから、きっと大丈夫なんだと思って、ゆっくりと歩きながら高台に向かって歩いていたら、津波に飲み込まれてしまったひとたちと、全く同じ構造と言える。

そのゆっくり歩いている人たちの中には、誰一人として確かな情報や確信なんてなかったはずなのに、まわりを眺めてみて、誰も急いで走っていないから、自分も歩いていて大丈夫なんだと、根拠なき安心と「空気」に流されてしまう。

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僕がこれを強く確信したのは、15歳のときにひとり上京してきたときです。

東京では、ブランド物を持っている人や高級車で溢れかえっていて、東京の人々は、なんてマネーリテラシーが高いんだろう!だから、ブランド品をたくさん持っているのだろうなあと漠然と思ったことが、きっかけでした。

「でも、一体このひとたちはどこでそのマネーリテラシーを学んだんだろう…?」と不思議に思いながら、その答えがわからずに大人になってみてわかったことは、実際にはその真逆でマネーリテラシーが低いからこそ、そんなブランド品を大量にを持っている大人たちが、東京には溢れかえっていたんだと理解し、愕然としました。

投資やお金の知識がないからこそ、みんなブランド物を持っている。

じゃあ、なんで買っているんですか?といえば、

「みんなが持っているから」

たったそれだけの理由で安心感を覚えて、何も考えずに高価なものを買ってしまう。

みんなが持っているから、当然自分だって「普通の人間」なんだから買ってもいいと思ってしまう。でも、本当はそうじゃないわけですよね。

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これはお金に限らず、食や健康に関する知識もそうですし、時間に関する知識もすべてそうです。

他人がそうしているから、という理由で自分もそうしていい理由には決してならないはずなんです、本当は。

でも、昨日も書いたように多くの人は「ふと浮かんできた欲望」それ以外のものを知らないから、ただそれにしたがって行為するしかない。それが、凡夫にとっての「思いどおり」というものであって、それは仮面を被った隷属に過ぎないという、まさにあの話と一緒です。

それこそ、マネーリテラシーが高くて、投資スキルの高い人たちは「みんなが持っているから」なんて理由で、絶対に高価なブランド品なんかを買わない。

それよりも、自らの知識や経験から導かれる哲学や行動原理に基づいて、一人だけ周囲から浮いている格好をしているはずなんですよね。

ちゃんと思考を突き詰めて深めているのは、むしろこちらのタイプの人たちで、僕らは彼らの意見にこそ本来はしっかりと耳を傾けないといけない。笑っている場合じゃないのです。

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でもそんな隷属状態にあるひとたちが「自分こそが正義だ」みたいな顔をして、そのような一般的な選択をあえてしていないひとたちを嘲笑うんですよね。

もし仮に、結果的に一般的なひとたちと全く同じ選択肢になったとしても、自分が調べ上げた結果として、強い納得感をもって選んでいるかどうかは、雲泥の差になります。

他人に「答え」だけを教えてもらってはいけない理由も、まさにここにある。

ただただ周囲を見渡して、みんながそうしているから、なんとなく私もそうしておこう、ぐらいが一番危ういことです。

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ここに気がついたら、まずは本気で徹底的に学んでみることが大切になってくる。

一度、世間からは離脱して、3年程度は真剣に学んでみることだと思います。

何か一つのジャンルにおいて大きな決断をする場合にも、最低でもそのジャンルの本や、そのジャンルを真正面から批判する本をそれぞれ10冊ずつ程度読み、合計20冊以上は読み込みたいところ。

あとは、火傷や怪我をしない程度に、自分なりに実践を繰り返してみて、何度か実際に失敗をしてみること。

それだけで見えてくる景色は全然変わってくるはずですし、それをやるだけで上位5%ぐらいには入るから、ただ笑っているひとたちとは、簡単に決別することができる。

そして、そこまですると、先に犀の角のようにただひとり歩んでいるひとたちの背中も自然と見えてくる。群衆の中でも、その背中がハッキリと見て取れるようになる。

まわりの声に流されずに、本当に確かな歩みをひとり淡々と歩んでいるひとたちが目に入ってくるんですよね、これは本当に不思議なことなんですが。

そうやって、本気で向き合っているひとたちの声に冷静に耳を傾けてみることが大事だなあだと思います。

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そして、大切にするべきは、そのような行動を自らが行っているときに、「私にも教えて」と歩み寄って来てくれるひとたちのほうだと思います。

陰で笑っている人たちのことは、本当に一切相手にしなくていいはずなんです。

ただ、多くの人は影で笑う声のほうに、聞き耳を立ててしまうんですよね。

そして、笑っているひとたちも、何か明確な根拠があって笑っているわけじゃない。彼らもそんな自分自身にどこか不安を覚えていて、あえて当人に聞こえるような声量で笑ってくる。それも非常に厄介なところなんです。

そして、彼らの目的は、その笑い声でプレッシャーをかけて、その熱中しているひとがやめる様子を見ながら「ほらやっぱり間違っていた!」と言って、自分の根拠のなさを根拠付けようとする。

もちろんそれは知人や友人だけじゃなくて、親、とくに母親なんてその最たるもの。子供に良かれと思って、バカなこと言うんじゃないと頭ごなしに否定してくる存在が、いわゆる「母性」という存在だなあと思います。

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で、今日のこの話は、裏を返せば、自分にどれだけ確信があっても、全身全霊で取り組んでいる人が目の前にいるのであれば、一旦自分の考えを留保して、真剣に相手の話を聞いてみることだと思います。

自分とまったく同じ景色を共有してるひとは、誰も存在しないということは、相手にも自分にはまったく見えていない景色や未来が見えている可能性は非常に高いわけですからね。

そのひとの話を聞いたからって、その瞬間にすぐに自分の意見を必ず変えなければいけないというわけでもありません。

すると、そこには必ず「一理ある意見」のようなものが見つかってくるはず。その相手が真剣であればあるほど、そのような一理ある意見は、必ず見つかる。

その発見によって、自分の根拠自体をより深めることにもつながるかもしれない。だったら、笑わずに真剣に聞いてみる価値は間違いなくある。

少なくとも、自分は常にそういう人間でありたいなあと思いながら生きています。

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もちろん、歴史上、すでに結論が出ている分野というのもあるかとは思います。極端なスピリチュアルとか、極端な陰謀論とかの話はまさにその類いです。

とはいえ、それも頭ごなしに否定する必要はまったくなくて「私はついていけません」の一言でいい。

先日の心理学者・河合隼雄の話がまさにそうです。そこで嘲笑ったり、バカにしたりする必要は本当に一切ない。

また、少なくともAIやweb3のようなジャンル、これから始まっていく新しい分野においては、その未来というのは本当に誰にも答えはわからないはずですから。

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逆に言うと、身近な人たちから笑われて、バカにされて、それでも自分が信じている道に淡々と賭けられるようになったら、初めてそこで一人前なんだろうなあと思います。

何度も繰り返しておきたいのですが、そのひとたちが見えている景色は自分と同じではないのですから。彼らが自分と同じ景色と、そのプラスアルファを知っているうえで笑っているんだとは決して誤解をしないこと。

意外と誰も教えてはくれないことではあるのだけれども、何かに真剣に取り組むうえで、そして実際に何かに対して賭けをするうえで、非常に重要な視点だなと思います。

いつもこのブログを読んでくださっている方々にとっても今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。