どうしても現代を生きる人々は、何か古めかしくて非科学的な見解を見つけると、告発せずにはいられなくなります。

たとえば、近年の「天皇制」なんかの議論は非常にわかりやすいところかと思います。

「古事記」のような神話や、それに基づいた天皇の存在なんて最初からフィクションなのだから、早く廃止してしまえ!と。

でも一方で、そのフィクションを我々が共有して、この国が二千年近く続いてきたことは紛れもない事実です。

その事実の部分は完全に無視して、フィクションであるというその一つの現実だけを取り上げて、廃止を主張するのはあまりにも短絡的としか言いようがない。

フィクションであっても、現にうまくいっている部分は何かと探りながら活用できるものはしっかりと活用していく。

それが、本来のリアリズムだと思うのです。

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そもそも、国家や自治体なんかも完全なるフィクションです。

改めてロックやルソーの名前をここで持ち出す必要もないぐらい、それはもうハッキリとしていること。

その起源がどれだけ非現実的だと告発してみても、それで世の中(国家)が良くなるわけではありません。

つまり、すべての法や制度というのはフィクションを基盤にして成立しているわけだから、そのフィクションが「現実において、どう役に立っているのか」を考えるほうが本質的で、これはプラグマティズム的な考え方にも非常に近いかと思います。

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個人レベルで言えば、「偏見」なんかもまさにそうだと思います。

先日、こんなツイートをしてみました。


「偏見」の活かせる部分と修正する必要がある部分をちゃんと見定めていくことは本当に重要なこと。

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きっと、古くは「狐憑き」や「妖怪」の類いなんかもそうだったのではないでしょうか。

現代では科学や医療が進んだおかげで、それらは全て「精神病」としてありとあらゆる診断名をつけられて、常人と「区別」され、すぐに病院に「隔離」されてしまいますが、

当時は、流動性の低い共同体の中で、文字通り"誰一人取り残さず生きていくために"、人間がつくりだした共同幻想だったはずなのです。

「昔の人は非科学的だから、迷信を簡単に信じてしまったんだろうね」と、現代のひとは昔のひとを侮るかもしれませんが、そんなわけがないでしょう。

それは、子供たちの「戦隊ごっこ」や「おままごと」を見ながら、「あの子たちはまだ幼いから、それが本当だと簡単に信じちゃうんだよね」と言ってしまうのと同じことです。

子供たちだって、自分が演じていることが嘘だということは重々理解している。

でもそれ以上に、今この瞬間を熱中して遊べることのほうが大事だってわかっているからこそ、ごっこ遊びに全力で没頭するわけです。

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今のひとたちからすると、すべてのフィクションは非科学的だとして、告発の対象になってしまう。

もちろんいまさら「誰一人取り残さないために、迷信をや昔話を取り戻せ」なんて言わないですし、それが適切だとも思いません。

しかしだからこそ、今の時代に合った「新たな見立て力」がとても重要になってくるのではないでしょうか。

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今日のお話が「フェイクニュース」や「ポストトゥルース」にも適応できてしまう危うさを持っていることも、もちろん承知しています。

でも、告発ばかりに注力して破壊し続けていても、何も前には進んでいかない。

どんな見立て力を駆使して、私たちがこれからも現在の共同体を保ちながら団結していくのか、それが今とても重要なことだと僕は思います。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの考えるきっかけとなったら幸いです。