教えや学びの実践する際には、必ず「不安や迷い」がつきまといます。

その教えが書かれた書物を初めて読んだときに頭の中に思い描いていた理想と、

それをいざ実践してみて、行動した先に見えてくる現実にはかなり大きな隔たりがある。

そんな大きな壁にぶち当たると、「本当にあの教えは正しかったのか…?」と不安になってくるものです。

でも、そうやって理想と現実のギャップと向き合ってみることで初めて「他者の物語」ではなく、「自分の物語」が始まっていく。

つまり、理想の姿を実践しようと挑戦すれば、必ず挫折を味わうもので、それを理解しながらもなお、その一歩踏み出してみることが、人生の中で本当に大切なことだと僕は思うのです。

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でも多くのひとは、実践までは辿り着かない。

ありがたい教えだけを知って、それを批評することにとどめてしまう。

この点、マルクス・アウレリウスは、『自省録』の中で、「善い人間のあり方如何について論ずるのはもういい加減で切り上げて、善い人間になったらどうだ。」という言葉を残しています。

これは本当に強くそう思います。

たとえば、仏教の教えなんかでも、高尚なお坊さんのありがたいお話を聞かせてもらったり、本で読んでみたりすると「いつか私もそんな世界に浸ってみたいなあ」と思わされる。

でも大抵の場合、そんな期待を抱いたまま、いつまでもその教え自体を実践しようとはしません。

それはそれで、ある種の救済につながるかもしれせん。なぜなら、頭の中で思い描いた「幻想」にいつまでも希望を抱いていられるのだから。

でも繰り返しますが、やはり実践するからこそ、そこに「私の物語」が初めて生まれてくる。

そのときに「不安と迷い」は常にセットであることは紛れもない事実であり、そして多くの場合は必ず挫折する。

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この点、『歎異抄』のなかで親鸞の弟子の唯円が、親鸞の教えを実践する中で、親鸞に対して不安を打ち明けたときの話が、僕にはとても強く印象に残っている。

教えを実践の中で生じてくる不安を打ち明けた唯円に対して、親鸞は「実は私も同じ不安を感じている」と打ち明けます。

この等身大の「迷い」が、どれだけ多くの実践者たちを勇気づけてきたのか。

これは唯円と親鸞という実践者同士の対話だったからこそ、生まれてきた一言だったのだと思います。

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さて、なぜ突然こんなことを書いているのか。

それは、昨夜Wasei Salon内で開催された『ゆっくり、いそげ』の読書会が、まさそのような「実践者同士の集いの場」となっていたからです。

実践するために一歩踏み出したからこそ見えてくる理想と現実のギャップに対して、モヤモヤしたり、不安を感じていたりする人たちがちゃんと集っているイベントでした。

それは、決してネガティブな感情ではなく「健全な焦燥感」だったように思います。

Wasei Salonは、そんな実践者が集い、それぞれの実践の中から見えてくる不安や悩みを、対話を通じて解消していける場として機能してくれたら嬉しいなあと思っていたので、昨夜は本当に理想的な空間になっていたように思います。

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もちろん、各人の実践の大小は問わない。

他人から見たらほんの些細な一歩だとしても、自分にとって価値のある大きな一歩であれば、それは等しく大きな一歩です。

このサロンには、各人のそれぞれの尺度における一歩を認め合い、しっかりと受け止め合う文化がある。

それは、これまでサロン内で開催されてきた100回以上のイベントをすべて思い返してみても、本当に強く実感するところです。

これからもこのWasei Salonが、書物に書かれている教えを自分の人生の中で実践しようと必死でもがく人たちにとって、安心して対話できる空間であり、「よし、明日からまた挑戦してみよう!」と思える憩いの場となっていったら嬉しいです。