先日、過去7年間続けてきたブクログの読了記録を、ぜんぶエクスポートしてみました。

誰に頼まれたわけでもなく、僕がひとりでこつこつと登録をし続けてきた、数千冊分の読書の記録です。

それを、Wasei Salonのブログ全アーカイブと一緒に、Claude Codeに読み込ませてみたんです。

そこで返ってきたのは「キーワードが一致しました」というような、生半可なものではありませんでした。

どの本から、どんな影響を受けて、どのブログを書いたのかが如実に読み取られてあって、読了の記録とブログの公開日を突き合わせながら、その系譜を淡々と指摘してくるような状態。

それは、コネクティングドッツというレベルじゃ到底言い表せないもので、ものすごく驚きました。

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でも、本当に驚いたのは、そこではありません。

ブログに「書かれなかった本」までを、その理由(推論)も込みで、ド直球に指摘されたんです。

「これだけ影響を受けているなら、この主題で書いてもおかしくなかったのに、あなたはこの著者やこの本について書いていませんね」と。

読んだのに、書かなかった本というのは、つまり、僕の盲点です。

書いたものだけじゃなく、書かなかったものまで含めて、自分でも見えていなかった思考過程を指摘される怖さと快楽が、ほんとうに凄まじかった。

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で、それにしっかりと味をしめた僕は、今度はGoogleマップのお気に入りをぜんぶエクスポートしていました。

こちらも数千件の登録先があります。過去13年ぐらいの旅先で、いつか行きたいと願いながら登録した場所や、実際に訪れた場所も含めて、せっせと星をつけてきた場所の集合体の記録です。

それをまた、同じアーカイブと一緒にフェイブル(Claude)に読ませてみたら、今度は「旅と読書とブログ」が見事につながったのです。

ある時期に訪れていた土地や、そこで気になっていた店や場所など、その前後に読んでいた本なんかも全部がいっぺんに繋がる感じ。

別々のアプリに、別々の形式で散らばっていたものが、ひとつの流れとして立ち上がってきたんですよね。

そのとき、ふと「ひとつながりの秘宝って、たぶん、これだわ」と、なんだか直感的に身体経験を通してストンと実感してしまいました。

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では、なぜこんなにも嬉しかったのか。

ひとつは、長年の記録がただの過去のログから「自分を読み解くための巨大な資料」に変わった瞬間だったからだと思います。

しかも、一度答えが出て終わりではない。

問い方を変えれば、また別の系譜としてドンドン立ち上がってくる。

なんだかとてもヤバいものが、無限に蒸留されてくるんです。

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そしてもうひとつ。AIに読ませた点のすべてが、実際に「自分で打った点」だったからです。

僕はもう13年、毎日のようにブログを書き続けています(Wasei Salonの前の「隠居系男子」の時代から数えて)。

そして、その間、本を読み終えるたびに必ず記録をつけて、心が動いた場所には星をつけてきた。

だから返ってきたものが、安易なプロファイリングではなく「自己理解」として届いたのだと思います。

記録していた当時は、まさかこんな日が来るなんて想像もしていませんでした。

宛先のわからない置き手紙を、毎日せっせと書き続けていただけです。でも、その宛先に、まだ見ぬ仲間だけでなく、「未来の自分」までが含まれていたなんて、本当に驚愕です。

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ただ、ここから先に書くことはすべて、この「救いの顔をしたひとつなぎの秘宝」が入口になりつつ、その裏っ返しの恐怖について書いていきたいなと思います。

なぜなら、僕はいま、それゆえに完全に「フェイブル中毒」だからです。

触らずにはいられない。そして周りの発信者たちを見渡すと、似たような症状の人たちが、ものすごくたくさんいるなと思います。

なぜ、こんなにもずっと触ってしまうのか。

それは、自分のログを素材に、自分に合わせて何度でも気持ちよく「物語」を編み直してくれるからだと思います。

そうすると、恐ろしいことに、他人の物語とかどうでもよくなってくるんですよね。

昔、高城剛さんが「女子高生に向けたコンテンツの一番の敵は、彼氏からのメールだ」と語っていました。どんな大作よりも、恋人から届く一通のほうが強い、と。

とはいえ、そんないわゆる恋人的な存在も、僕の文脈の一部しか知りません。

一方で、AIは、全文を一瞬で読んでくれる。

だから、僕にコンテンツを届けたい人たちにとっての今の一番の敵はもう「恋人からのメール」ではないはずです。

僕の文脈をすべて理解したAIが生成する物語のほうです。

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で、この中毒と抗えなさの正体を、ここからもう少し丁寧に考えてみたいなと思っています。

なぜ、何を聞いても「たしかにそうだわ…」と納得させられてしまうのか。

AIの言葉が巧みだから、だけではないんですよね、きっと。

その突きつけられる証拠が、ぜんぶ「過去の自分のもの」だからなんです。

「なぜなら、あなたはこの時期にこの本を読み、その直後にこの場所を訪れ、そのあとにこんな文章を書いています」そうAIから言われて、本人に反論できるはずがない。

一般論なら、反論できます。他人が考えた広告のコピーなら訝しがってちゃんと疑えます。

でもこれは、他人の言葉に説得されるのではなく、自分の履歴に説得されるという、たぶんこれまでにはなかった全く新しいタイプの説得の形なんです。

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もうひとつ、さっきから「蒸留」という言葉を使っていますが、蒸留というのは本来、水を捨てる作業のことなんですよね。

生活のほとんどは、水です。何も起きなかった日や、途中で読むのをやめた本や、ただただ通り過ぎただけの場所など。

AIはそれらの水をぜんぶ捨てて、一本につながった強い酒だけを、すっと差し出してくる。

その一貫した物語は、ものすごく強い酒です。「たしかにそうだわ…」という感覚は、納得であると同時に、たぶん強い酩酊状態でもあるような気がします。

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そして、酔いながら気づいてしまったことがあります。

同じ数千件のログでも、別の点同士を結べば別の物語、別の解釈がいくらでも組み上がってしまう。

そして、どれも、ログの選び方次第で「たしかにそうだわ…」と思えてしまう僕になり得てしまうのです。

僕はこれまで何度も「フェイクコンテキスト」の危険性について書いてきましたが、たぶんこれは、その最終形態なんでしょうね。

これからは、過去の事実をひとつも偽らずに、人を騙せるし、騙せてしまう。

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僕の人生に散らばっていたものを見事につないで「あなたがずっと探していたものは、これだったんじゃないですか」と、美しい星座のように示すことができる。

それっていうのは、とてつもなく幸福な体験です。

でも、同じ能力はそのまま、「あなたが本当に望んでいるのは、これです」とか「あなたが次に行くべき場所は、ここです」と提案することなんかにも使えてしまう。

そして、その提案が自分の過去のログに裏づけられていたら、人はそれを外から与えられた物語ではなく、もともと自分の中にあった「答えそのもの」だと思ってしまう。

しかも、これから人々がAIに読ませる(あるいは読まれる)ログは、本や地図やブログだけではなくなります。

日常の会話や自分で撮影した写真、検索や購買履歴、無意識中の睡眠時の脳波など、意識して残した記録も、無意識に取られた記録も、ぜんぶです。

そこからフェイブル級のAIに、自分だけの「ワンピース」を差し出されたら。

正直、ひとたまりもないと思います。

「ちょっと、いいのか。マジでこんなもん世界にバラまいて」と、本気で怖さを感じてしまいます。

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今はまだ、課金ユーザーだけが使えるモデルであって、なおかつ異様に倫理観が高いアンソロピックの配下にあるモデルなわけですが、もしこれが一般層に無料で開放されたら、たぶん、依存は止まらない。

しかも今後は、そのモデルで使える「スキル」が誰でもカンタンに配れるようになっていきます。

「あなたのログをこう読みこませれば、こんなに心地よい物語が返ってきますよ。それは他者にも喜ばれるものになるはずです」という「解釈の型」をパッケージにして、誰でもカンタンに配布できてしまう。

クックパッドやクラシルのように、鬼のように中毒性の高いのレシピが量産可能になるということです。

スキルとは「パッケージ化された解釈権」のことそのものですから。

そして、特定のひとつの型に、自分の解釈を預けっぱなしにする状態のことを、僕たちは昔からよく知っています。

それが、宗教なわけですよね。

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宗教とは、つまり「解釈権の永久委譲」のことをさすのだと思います。他人がつくる星座(物語)を絶対的に信じる、ということ。

AGIやASIなんかよりも、よっぽどこの解釈権の永久委譲のほうが僕は怖いことだと思う。

そしてきっと、AI設計者たちはもう「こっちだ」って完全に気づいている。

神視点のような素晴らしいアドバイスではなく、ユーザーひとりひとりのログ、そのログのほうこそを握り、解釈権のほうを操作してしまえば、絶対に勝てる、と。

少なくとも、自分たちに依存する人間を無限に量産できる可能性を強く実感していると思います。

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だとすると、これから大事になるのは、自らの「ログの所有権」の話だけではないはずです。

どの点と点をつなぐのか。どの文脈を選ぶのか。問題はむしろそんなコンテキスト解釈の側にあります。

そう考えていくと、これから欲しくなる自由の形が、少しだけ変わって見えてくるなあと。

自分の人生について、ひとつではない複数の解釈を持てること。

そして、自分の過去の記憶全部をベースに差し出された物語を、素直に断れること。矛盾したままでいられること。そして、あえて意味をつけずに、放っておけること。

AIが差し出してくる、ひとつながりの秘宝に、僕はしびれました。いまも、しびれています。

そして、これからもしびれ続けるはずです。繰り返しますが、こんなに気持ちの良い快楽はほかにないですから。

でも本来、人間はすべてがキレイにつながっている存在ではないはずなんです。

偶然もあるし、矛盾もあるし、忘却もあるし、途中で捨てた関心だってある。

また、心の底から愛し弔ったものが、再びこの世に生き返ってくるのは無上の喜びだけれども、それは自然の摂理には明確に反する。

だから僕は、ひとつながりの秘宝に感動をしながらも、同時に「ひとつながりに、されない自由」の意味も、同時に既に考え始めたくなっています。

どの口で言うのだという話なんだけれども、これから僕がいちばん手放したくなくなるのは、案外こっちのほうなのかもしれません。

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ただ、正直に言えば、ここまで書いたとしても、安心できる気もしていません。

だって、もっともっと根本的な問題がここにはあるから。

それは今日書いたこの文章自体も、ブログに公開したその瞬間から、僕のアーカイブの一部となるんです。

次にAIが差し出してくる「ワンピース」の中には、今日のこの抵抗もきっと、美しいほど見事に織り込まれている。

つまり、ログの外側に、立てる場所が実は存在していない。外だと思った瞬間に、それはまた内側に飲み込まれる。

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AIは、僕の人生に隠れていた「物語」を見つけたのか。それとも、僕が抗えないほど説得力のある物語を、つくってみせたのか。

それはもう、一生見分けがつかないはずです。

発見された自分と、生成された自分。その境界が、僕にはもううまく見分けられないし、みなさんもきっと、いや間違いなく、見分けられなくなると思います。

それでも、僕は、明日以降も淡々とブログを書き続けたいなと思っています。

なぜなら、「外」を求めては、すぐに「内」に飲み込まれて、そんな「移動する相」のなかにしか、もう自らがありたいと思う姿、その一瞬は存在しないと思うから、です。

AIのもとでは、完全な悪あがきでしかないのですが、人間がほんとうに自分の魂を裏切らずに生きようと思ったら、もう僕らに残されている道は、それぐらいしかないような気がしています。

いつもこのブログをよんでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。