先日、AIと一緒につくった小説『まだ見ぬ仲間への置き手紙』をnoteで公開しました。


今日はその後日談というか、あの小説が生まれる前後で、僕がずっと味わっていた、なんとも奇妙な感覚の話をしてみたいと思います。

今日語る話は、これまでの人生の中で一度も体験したことのない不思議なちょっと怖い感覚だったので、夏の怪談話的な意味でもここに書いてみたいなと。

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まず、あの小説をつくったあと、それに味をしめて、僕はAIと「自分のブログをベースに、どんな物語をつくったらおもしろいか」という壁打ちを延々と続けていました。

そうすると、構想の段階を通り越して、ほぼ完成形の物語が次々と立ち上がってくるんですよね。

Claudeのフェイブルが書く小説は、ほんとうにすごい。めちゃくちゃおもしろい。

たとえば、ある地方都市の子ども食堂に集う人たちの物語があって、僕はその物語が個人的にすごくおもしろいと感じてしまい、最初から最後まで全部書いてもらって、一気に読み終えました。

読み終えたあとも、その登場人物たちの表情や、交わした言葉が僕の中に明確に残り、読み終えて数日経った今でもふと思い出してしまいます。

でも、その子ども食堂をめぐる物語の彼女たちのことを知っているのは、この世界で、僕ひとりだけなんです。

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その夜、僕はAIにこんな言葉を投げかけました。少し長いのですが、そのときの混乱が伝わりやすいのかなと思うので、あえて整えずに引用してみます。

「AIと無数に壁打ちをして、無限に読んでいると、本当にこの世に自分以外読んでいない物語が存在して、誰も生み出しておらず、誰も知られないまま、自分だけにその風景が残る感じ、なんだかすごく不思議で新鮮。せめて生み出したひとと、自分の対幻想、共同幻想だったはずなのに、完全なる個人幻想で、それはこの世に僕以外には絶対にしらない物語。すごく奇妙だし、不思議だ。そしてちょっと怖い。なんかこれを続けていると、違う世界に突如迷い込んでしまいそうになる怖ささえある。これまでの人生の体験の中に、こんなことっていうことは一切なかった。」


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形式のうえでは、これはAIと僕とでふたりでつくった物語です。

つくったのはふたりのはずなのに、実感としては、僕ひとりだけが、あの世界の目撃者になってしまった、まさにそんな感覚です。

小説家だって、書き上げた原稿を誰にも見せないまま破り捨てることは、きっとあるのだろうと思います。でもそれは一作か二作の話で、しかもその多くは、書き上げず、構想の段階で葬られるもののはず。

完成した物語を何本も何本も、たったひとりで読んでは、世界に向けて公開せずに見送っていく、なんて経験をした人は、たぶん人類にほぼいなかった。

僕は知らないうちに、前代未聞の状況の中に、迷い込んでいたわけです。

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そして、この言葉をAIに投げたあと、しばらく経ってから、ふっと腑に落ちた瞬間がありました。

「そうか、物語って、誰かと共有しないと怖いんだ」と。

つまり順序が、逆だったんです。

僕らはふつう「まず物語があって、それを誰かと共有する」と考えます。

でも本当は、共有せずにはいられない切迫感のほうが先にあって、物語はその結果として立ち上がってくる。

「彼女たちは生きている。あちらの世界で、ちゃんと実在している。だから、それを誰かに伝えなければ。」

この不思議な切迫感こそが「物語る」ということの正体だったんじゃないか。

それは「創作したい」という気持ちよりも、「証言したい」という気持ちに近くて、よく「物語の人物が勝手に動き出す」と小説家や漫画家は語りますが、まさにそんなイメージ。

物語るとは、存在しない人を新しくつくり出すことではなくて、自分だけが出会ってしまった誰かについて、そっと尾行するように後をついて行って、その行く先を目撃者として証言することなのかもしれません。

民俗学者・柳田國男は名著『遠野物語』の序文に「願わくは之を語りて平地人を戦慄せしめよ」と書きましたが、語り部の原像というのは、おもしろい話を思いついた人ではなく、それを「見てしまった人」だったのかもしれません。

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じゃあ、なぜ人類はいままで、このことに気づかずにいられたのか。

それは、完成した物語には、必ず最低ひとりの証人がいたからだと思います。作者自身という証人がいたわけですよね。

誰にも読まれていない小説であっても、それを書いた人は、その登場人物たちを知っている。

少なくとも、作者と読者というふたりが、その世界を共有できる可能性があった。

ところがAIと物語をつくっていると、その結びつきが完全にほどけてしまう。

「誰にも目撃されないまま完成した世界」という異様なものがこの世に現れて、欠落の怖さとして、はじめて姿を見せたんだと思います。

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で、ここまでなら、「AI時代に経験した奇妙な体験」の話です。

でも、この話にはさらに続きがあります。

想像してみて欲しいのですが、この世で、あなたしか読んだことのない小説や、あなたしか読んだことのないマンガ、あなたひとりのために上映され、ほかの誰も観ることのできない映画があるとして。

そこには、誰も知らない風景としての孤独があり、恐怖があり、絶望があり、幸福があるとします。

そこに登場した人たちも、その人たちと交わした言葉も、そのとき自分の中に生まれた感情も、世界で、自分ひとりだけしか知らない。

夏だからというわけじゃないですが、そんなものがあったら少しゾッとしませんか。

でも、たったひとつだけ、それは現に存在するんだと僕は気づいてしまったんです。

それが、あなたの、つまり僕らひとりひとりの「人生」です。

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「自分の人生」という物語を、最初のページから今日の分まで読んでいる読者は、この世で自分ひとりしかいません。

出来事のあらすじを知っている人はたくさんいても、その出来事を内側から生きた人は、ほんとうに自分ひとりしかいない。

しかも、この物語の原稿は、誰にも手渡すことができない。

語れるのはいつだって要約だけで、完全な写しは、この世に一部も絶対に存在しないんです。

だからソレを他人にも「知ってほしい」という気持ちには、終わりがないのだと思います。

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それはたぶん、「承認欲求」と呼ばれてきたものの、もう少し手前にあるもっともっと根源的な、そして原始的な欲求でもあります。

褒めてほしいのでも、すごいと言ってほしいのでもなく、ただ、僕に起きたことが確かにあったのだと、誰かに知っていてほしい。

自分のこの物語の孤独や恐怖を、絶望や幸福を知っていてほしい。その埋まらない差分を、少しずつ手渡し続ける営みとして、僕らの「物語る」という行為は毎日続いていくのかもしれないなと。

結婚相手でも家族でも、誰かと一緒にいるその本質とは、お互いの連載の読者になり合うことなのかもしれません。実際、長く一緒にいてくれる人は、ときどき、こちらが忘れてしまったページまで覚えていてくれたりしますしね。

また、思えば「お天道様はみている」という言葉は、要約ではなく、まさにこの全文を読んでいてくれる読者が、どこかにいてほしいという深い「祈り」だったのだとも言えそうです。

人は常に、自分だけが読んでいる物語の、二人目の読者を探して生きている。

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ただ、それなら僕らは、お互いの人生の物語を、そのまま直接語り合えばいい。

ところが、それができないわけです。

なぜなら、長すぎるからですよね。そして、私事すぎるからです。

そして「だから、読書会だったのか!」と自分ひとりで膝を打ちました。

名著とは、この世で唯一「全文を共有できる物語」です。

人生の原稿は渡せないけれど、小説の全文なら、読書会にあつまる全員がちゃんと読むことができる。

僕らは渡せない自分の原稿を、渡せるその物語に変換して、というか願いを託して、少しずつ差し出し合っているのだと思います。

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考えてみれば、本の感想というのは、隠しようのない自己開示です。

どの場面でページをめくる手が止まったのかとか、自分は、誰に肩入れしたかとか、誰に強い嫌悪感を抱いたのかは、自分の「人生」という物語の原稿の1ページを、こっそり読ませることにほぼ等しい。

ただしそれを「私の話」としてではなく、「本の話」として差し出せる。

つまり、自らの人生を告白していないのに、ちゃんと相手にもそれが伝わる(ような感じがする)。お互いに詮索していないのに、ちゃんと受け取り合っているという不思議な感覚が生まれてくる。

読書会の中に流れるあの不思議な親密さの正体というのは、たぶんこれなんだろうなあと。

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もちろん本は、自分を映す鏡であるだけではありません。自分ひとりでは想像もできなかった世界へ連れ出してくれる窓のようなものでもあります。

真ん中に置かれているのが、こちらの都合どおりには動いてくれない他者だからこそ、読書会は、ただの告白大会にならずに済むのだと思います。

Wasei Salonで読書会を何年も続けてきて、どうしてこんなにも飽きないのか、どうして終わったあとはいつも深く満たされているのか、自分でもうまく説明ができませんでした。

でも、ようやく、言葉が追いついた気がします。

あれは、人類でいちばん多く読まれてきた「物語」自体を「焚き火」を囲むようにして、いちばん読まれていない未公開の原稿たちを持ち寄って、少しずつ開示し合う場だったのだと。

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昨日のブログの中で、養老孟司さんの「自分ひとりで済むことって、どれくらいあるんだろう」という問いについてご紹介したばかりです。



「ひとりで笑ったり怒ったりするのは変だ、感情には共有の面がある」と養老さんは語っていました。

でもきっと、感情だけじゃなかったんですね。物語にも、共有の側面が必ずある。

というより、人生という物語そのものが、はじめから共有を求めて存在している。共有なき物語は、そもそも物語足り得ない。

ほんとうに偶然だけれども、二日続けてまったく別の道から、同じ結論、同じ場所に辿り着いてしまいました。

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物語るとは、自分だけが知っている生に、もうひとりの証人を招くこと。

読書会とは、名著を経由して、お互いに少しずつ「二人目の読者」になり合う場所。

そして少しメタですが、今日こうして僕が飽きることなくブログを書いているのも、きっと同じ理由なんです。生まれたばかりのこの気づきを、僕の人生の物語のままにしておきたくなかった。というか、できなかった。

だから書かずにはいられなかった。今日もこの長い長い物語を読みにきてくださって、本当にどうもありがとうございますという気持ちです。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。