先日、こんな記事を書きました。
https://wasei.salon/blogs/a0fa2122398a
このなかで僕は「祝福という行為を、強い意志を伴って継続していきたい」と書いています。
なぜ、ここにきて「祝福」なのか?
今日はそんなお話を少しだけ追記しておこうかなと思います。
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この点、一見正しそうに見える行為でも、相手の承認欲求を安易に満たしてしまう行為は危険だという話はよく目にします。
たとえば、
「褒めてはいけない」
「ご褒美を与えてはいけない」など。
詳細は省きますが、このブログをいつも読んでくださっている方であれば、必ずどこかで一度は聞いたことがある話だと思います。
そんな中、僕はこれまで一度も「祝福してはいけない」という言葉を目にしたことはありません。
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たとえば、「お誕生日おめでとう」という言葉があります。
誰もが、身近な人に誕生日が訪れれば、自然と口にする言葉だと思います。
これも立派な相手を祝福する行為です。
でも、よくよく考えてみたら、おかしな話ですよね。
誕生日というのは、生きている人間であれば必ず一年に一度は訪れる日であり、本人が何か努力をして成し遂げたことがあるわけでもない、ごく普通の日なのですから。
それでも僕らは、
「生まれてきてくれてありがとう。生きていてくれてありがとう。」
と、無条件に相手に対し祝福の言葉を贈ります。
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現代は、誰もが少なからず自己の承認欲求を満たしたいと願っている世の中です。
自分の生きる意味を、他者からの承認で満たしたいと切望し、そのためならいくらでも努力することができてしまう…。
そして、その努力に対する他者からの反応に、一喜一憂させられて毎日を過ごす。
SNSが普及してこの10年間、そんな承認欲求はみるみるうちに各人の中で肥大化していきました。
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だからこそ僕は、その肥大化してしまった欲求を「承認」という形ではなく、静かに「祝福」するという形で満たしていきたい。
「見ているよ、気づいているよ、どんなあなたであっても素晴らしい」のだと。
ただ隣にいて「おめでとう」と言い合える間柄の尊さ。
耳目を集めるために、過度な行いに手を染める必要はもうないのだと思える安心感を創出していきたい。
本当の意味で、現代における「安心安全の空間」とは、きっとそんな空間だと思うのです。
そして、今この世の中にもっとも足りない空間のひとつでもあると思います。
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互いの承認欲求を否定し合い、禅僧のようにお互いに無関心であり続けることは、まだまだ今を生きる僕らには難しい。
だとすれば、ただただ静かに相手を祝福したい。
祝福は相手から見返りを求めない純粋な「贈与」でもあるかと思います。
そして、母体から生まれてきた瞬間に他者(家族)から自分へ向けられた一番最初の「贈与」でもある。
そんな祝福を循環させたい、そんなことを考えた結果、上述したブログを書いてみました。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても今日のお話が何かしらの考えるきっかけとなったら幸いです。