たとえば、いつの時代だって人間は現代人と同じように「健康でありたい、長生きしたい」と願っているはずだ、と。
そういった思い込みから、短命に終わった人々の人生を取り上げて、「彼らは不幸だったはずだ」と語られる解説をよく目にします。
でもこれって本当なのかなあと。
少し前までこの国では、切腹や特攻が名誉でした。
だとすれば、当時の日本人の死生観から理解しないと、彼らにとって何が幸福で何が不幸だと感じていたのかは、本当の意味で理解はできないはずです。
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この点、大河ドラマなど、現代における歴史のフィクションを観ると非常にわかりやすいです。
現代人が理解しやすいように、現代人のあたりまえの解釈から感動的なシーンが描かれていることって多いですよね。
歴史に対して、少しでも興味を持ちやすくするために、様々な工夫がなされているわけですが、その工夫がされていると理解したうえで、かなり注意深く眺めないと、ついつい自分たちの感情(フィルター)を通して、その時代の史実を眺めてしまう危険性がある。
そのことは常に肝に銘じておきたいなと思います。
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さて、このような価値観の齟齬は、時空を超えて長い歴史の時間軸のなかで考えてくると、多くの人にとってハマりやすい罠だということは容易に理解してもらえるかと思います。
さらに難しいのは、ここから。
同時代を生きている人間同士でも、全く同じことが起きていると僕は思うのです。
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僕らはどうしても相手の言動を、自分の価値観や現代人の「あまりまえ」を通じて、判断してしまいがち。
でも、もしかしたら本当は、自分といま隣にいるひととの間には、現代人と鎌倉武士の死生観と同じぐらい大きな価値観の溝があるかもしれないのに。
同じ時代を生きているからという理由だけで、現代の「あたりまえ」を持って判断しようとしないことは、本当に大切だなあと思います。
これは、以前書いた「醤油論争」にも近いお話。
https://wasei.salon/blogs/718a562053cf
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そして、これはもはや訓練の領域です。
常に、第三の視点を持ちながら、そんな落とし穴が待っているかもしれないと注意深く、観察し続けられるかどうか、
逆に言えば、一度身につけてしまえば、相手の目線に限りなく近くに寄り添って、いま目の前で起きていることを、相手の「あたりまえ」から理解できるようになる。
そうすると、相手に対する働きかけも180度変わってくるのかもしれません。
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今日書いたことは、「相手の立場になって考えろ」に要約されるような話です。
でも、歴史などを通じて、時空を越えた訓練を繰り返すことで、「今ここ」においても、自然と意識することができるようになるのかもしれない。
そんなことを考えながら、今日のブログにも書いてみました。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、何かしらの参考となったら幸いです。