一般的に、ひとが「労働」や「仕事」に求める価値は3つあると言われています。

1.満足な対価

2.他者からの承認

3.創作に対する喜び

以上の3つです。

もし仮に、「満足な対価」だけでいいなら窓際族なんて問題は起こらない。むしろ、一日中働かなくていいのだから率先して窓際族になりたがるはずです。

一方で、「他者からの承認」だけでよければ、やりがい搾取なんて問題も起こらない。

また、「創作の喜び」だけでよければ、売れない芸術家であっても一向に構わないはずです。

しかし、これらの3つの価値があって初めて、社会のなかで「働く」の満足感を得られるのが人間です。

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では果たして、今の仕事に対して、これら3つを同時に求める必要はあるのでしょうか?

この点、ひとりひとつの職業が当たりまえだった時代においては、なんとかして、これら3つの要素をすべて求める必要があったかもしれません。

しかし現代は、複数の仕事を同時に並行して担える「複業」が当たり前の時代になりつつあります。

だとすれば、これらの3つの価値もひとつの仕事だけに求めるのではなく、それぞれの仕事に対して別々に求めてみても良いのではないかと思うのです。

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にも関わらず、複業が当たり前になった現代においても、従来の価値観のまま、ひとつの仕事に対してすべてを同時に求めたがるひとがすごく多いなと感じます。

「3つの価値を同時に満たせる仕事こそが私の天職であり、他者にも誇れる職業なのだ」と信じて疑わない。

この点、数年前に宇多田ヒカルさんが言ったとされる「売れること、伝えること、どちらを選びますか?」と問われて、「その両方を同時に行えるのがプロなのではないか」とインタビューで語ったという旨のツイートが、ものすごくバズっていたことがありました。

これはたしかに素晴らしい考え方ではあるとは思うけれど、僕はこの発言を絶賛したがる日本人の価値観こそが、無意識のうちに自身の仕事に対する「呪い」になってしまっているのではないかと思うのです。

それは「プロフェッショナルたるや、このように針の穴に糸を通すような偉業を成し遂げて当然なのだ」と。

もちろん、宇多田ヒカルさんのように、そんな仕事を人生の中で見つけられたら大変素晴らしいことだと思います。

でも、見つけられなくても、それはそれで一向に構わないはず。そこに仕事における優劣は存在しない。

にも関わらず、3つの価値をすべてひとつの職業に求めてしまい、周囲と比較し「私は劣っている」と落胆してしまうから苦しくなってしまう…。

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それは喩えるなら、「これさえ食べれば栄養満点!」というような完全栄養食を求めて、いつまでも世界中を彷徨い続けているようなものです。

「いや別々の食材を食べて、自らの身体に必要な栄養素をそれぞれで満たせばいいじゃん」という話です。

言い換えれば、いつまでも完全栄養食を求めて彷徨い続けるのではなく、自らに必要な栄養素が何かを解像度高くちゃんと理解して、1日の食事の中で、バランスよく摂取できる人間が優れた大人(プロフェッショナル)なのではないのかなと。

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コロナの影響で、誰にでも複業が実現可能な社会となってきています。

複数の仕事に分けてそれぞれの価値を求めることが、より一層容易になってきている世の中です。

だとすれば、この仕事で満足な「対価」を得られなくても構わない。

この仕事で満足な「承認」を得られなくても構わない。

この仕事で満足な「喜び」を得られなくても構わない。

そんなふうに、これまでとは異なる価値観で仕事に対して向き合ってみるのもアリなのではないでしょうか。

もちろん仕事だけでなく、ここに「地域活動」や「コミュニティ活動」などが含まれてもいいと思います。

たった一つの「天職」願望がまだまだ根強い日本で、このように他者と異なる価値観で仕事と向き合えたほうが、結果的にたくさんのチャンスを掴めるかと思います。

いつもこのブログを読んでくれているみなさんにとっても、何かしらの参考になったら幸いです。